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〜太平洋戦争の歴史〜

上海事変(第一次)勃発

 上海は日本にとって対中国貿易の中継地となる都市で、市内の共同租界には約2万5000人の日本人が居住していた。1931(昭和6)年の満州事変発生を受け、上海は中国の抗日運動の拠点となり、緊張が高まった。

32(昭和7)年1月、日本人僧侶が襲撃された事件をきっかけに日中両軍の武力衝突が発生。日本は当初、海軍陸戦隊2000人を派遣して短期決着を目指したが、中国軍は頑強に抵抗した。日本は、陸軍3個師団を増派し、3月に上海北方を占領して何とか面目を保った。5月に停戦が成立し、日本軍は撤退したが、中国進攻への野心を隠さない日本への国際的な不信が高まった。

2・26事件

 1936(昭和11)年2月26日早朝、陸軍の青年将校に率いられた約1500人の反乱部隊が首相、蔵相、内相など政府首脳を襲撃した。さらに陸軍省、参謀本部、警視庁などを占拠、永田町周辺を封鎖した。襲撃で斎藤実内相、高橋是清蔵相、渡辺錠太郎陸軍教育総監が殺害され、鈴木貫太郎侍従長が重傷を負った。

 部隊を指揮した青年将校らは、陸軍部内で国家革新を目指した「皇道派」グループに属し、クーデターによる政権奪取を目指した。同じ皇道派の高級幕僚が呼応することを期待していたが、重臣を殺害された天皇が断固たる姿勢を示したことで、軍部内に反乱部隊を支持する動きは起きなかった。政府は27日、東京地区に戒厳令を発し、反乱鎮圧のため陸軍部隊を集めたほか、海軍艦艇を東京湾に向かわせた。

 結果的に大規模な戦闘には発展せず、29日に反乱部隊が帰順して事件は終結した。青年将校らは逮捕され、軍法会議で17人に死刑が宣告された。しかし、この事件以降、軍部が内閣人事に介入するなど政治的発言力を強め、太平洋戦争への道筋がつけられた。

拡大する日中戦争

 1937(昭和12)年7月7日深夜、北京郊外の永定河に架かる盧溝橋付近で夜間演習を行っていた日本軍部隊に、近くの中国軍陣地の方角から数発の銃弾が放たれ、日中両軍の小競り合いとなった(盧溝橋事件)。発砲は偶発事故で、日本政府と軍部は早期に事態を収拾するつもりだったとされる。しかし、中国では国民党と共産党による対日統一戦線が形成され緊張感が高まっていただけに、蒋介石政府は強硬姿勢を崩さず、日中の全面戦争に発展した。

 同年8月に日本陸軍は北京と天津を制圧(北支事変)、さらに海軍陸戦隊が上海で中国軍との戦闘に突入(第2次上海事変)する。ここに至り、近衛文麿内閣は中国側の「暴戻を膺懲(ようちょう)する」との声明を発表、事実上の宣戦を布告し、戦火は一挙に拡大した。

 日本は同年10月までにおよそ100万人の兵力を投入し、武漢、広東の占領には成功するが、蒋介石政府は奥地の重慶に本拠を移し、徹底抗戦を貫いた。以後、日本は泥沼の長期戦に引き込まれ、徐々に国力を失うことになった。


ノモンハン事件

 1939(昭和14)年5月11日、満州国とモンゴル人民共和国との国境付近にあるノモンハンで、国境線をめぐって両国による紛争が発生。これが日本・ソ連による大規模な軍事衝突「ノモンハン事件」へと発展した。

 現地の関東軍(満州国に駐留する日本軍)は当初、紛争に乗じてソ連領に侵攻する意図まで持ち、中央の参謀本部の方針を無視して独断で戦線を拡大した。5月の第1次戦闘には2000人を投入、6月末からの第2次戦闘ではソ連領内を爆撃し、さらに約1万5000人の地上兵力を動員した。

 しかし、戦車部隊と航空機を立体的に連携させる近代戦を展開したソ連軍に対し、歩兵中心の白兵戦で挑んだ日本軍は9月の停戦までに約7700人の戦死者を出して壊滅した。ソ連軍を指揮したジューコフ将軍が日本軍について「兵は勇敢だが高級将校は無能」と指摘したように強引な用兵が敗因だったが、その傾向は太平洋戦争でも変わらなかった。

第2次世界大戦始まる

ナチス・ドイツは1939(昭和14)年8月23日、ソ連との間に不可侵条約を締結。両国はポーランドを分割し、バルト諸国やフィンランドをソ連の「取り分」とすることなどについて密約を交わした。その後、ドイツ軍は9月1日にポーランドに侵攻、英仏両国は9月3日にドイツへの宣戦を布告し、ここに第2次世界大戦が始まった。

 ドイツ軍は機甲部隊が空軍の支援を受けて高速で進撃する「電撃戦」を繰り広げ、ポーランドは約1カ月で降服。戦争準備をほとんどしていなかった英仏両国は何の支援もできず、独仏国境に築いた重武装のマジノ線要塞の背後にとどまったままだった。

 一方、9月17日にはソ連軍がポーランド東部国境から侵入し、密約に沿って東半分を占領。さらにバルト三国と「相互援助条約」を結んで事実上の支配下に置き、11月にはフィンランドへ攻め込んだ。


山本五十六、連合艦隊長官に

 1939(昭和14)年8月、山本五十六海軍中将が連合艦隊司令長官に就任した。米国駐在の経験があり、ロンドン軍縮会議にも参加した山本長官は海軍の国際派として知られ、圧倒的な国力を持つ米国との戦争には消極的だった。

 40(昭和15)年、当時の近衛文麿首相から対米戦争に対する意見を聞かれた際、「ぜひやれと言われれば半年や1年の間は暴れてご覧にいれるが、2年、3年となれば(勝利できるか)まったく確信は持てない」と答えている。また、軍人として早くから航空機の有用性に注目し、海軍航空部隊の育成にも関わった。空母機動部隊による真珠湾攻撃は山本長官の発案と言われている。


日本軍、ハワイ・真珠湾を攻撃

 日中戦争開始以降、日本への対立姿勢を強めていた米国は、1941(昭和16)年11月26日、日本に対し(1)中国大陸、インドシナからの軍事力、警察力の撤退(2)中国での特権の放棄(3)日独伊三国同盟の破棄−を求める協定案「ハル・ノート」を突きつけた。

 事実上の最後通告を受けた日本政府は12月1日の御前会議で米英との開戦を決定。既にハワイに向かっていた空母6隻を中核とする海軍機動部隊に攻撃命令が下った。12月8日(現地時間7日)、ハワイ北方425キロに達した機動部隊から計350機の航空部隊が発進し、オアフ島の真珠湾に停泊していた米艦隊を攻撃。これにより、太平洋戦争が始まった。

 真珠湾攻撃による米側の主な損害は、戦艦5隻が沈没したほか、戦艦4隻、巡洋艦、駆逐艦各3隻が損傷、飛行場への攻撃で航空機188機が破壊された。人的被害も戦死・行方不明者が2300人を超えた。ただ、日本側が主要攻撃目標としていた米空母部隊はハワイにおらず、米国の海軍戦力が大きく低下することはなかった。


英東洋艦隊が壊滅

 真珠湾攻撃から日本時間で2日後の1941(昭和16)年12月10日、マレー半島東方沖で世界の海戦史に残る戦いの一つ「マレー沖海戦」が行われた。日本の海軍機が英東洋艦隊の主力である戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスを撃沈し、極東地域での英国の海軍力を壊滅させた。真珠湾攻撃で米太平洋艦隊も戦闘力を喪失しており、この時点で日本軍は西太平洋地域の制海権を掌握した。

 マレー沖海戦が海戦史で特筆されるのは、日本海軍が世界で初めて、航空機だけで航行中の戦闘艦を撃沈したからだ。ただし、攻撃に参加したのは航空母艦の艦載機ではなく、陸上基地で運用される攻撃機だった。ベトナムのサイゴン基地とツドウム基地を飛び立った96式陸上攻撃機と1式陸上攻撃機の合計85機は、水平爆撃と魚雷による攻撃で英国の誇る大型戦艦2隻をわずか3時間で沈めた。

 英艦隊には護衛戦闘機を搭載した空母が随伴しておらず、巨砲を備えた大型戦艦といえども航空機の援護なしには無力であることが明らかになった。米国はこれを教訓に空母機動部隊の増強を急ピッチで進め、太平洋戦争後半になると日本は米国の巨大な航空戦力に追い詰められる結果になった。

イエスかノーか

 海軍の真珠湾攻撃と呼応する形で、陸軍部隊も南方への進出を開始した。最も重要な作戦目標のひとつが、東アジアの海上交通路の要であった英領シンガポールだった。防備の薄い陸側から攻めるため、日本陸軍はマレー半島に上陸すると、ひたすら南下した。

 防御側の不意を突いたこともあって、日本軍はわずか55日でマレー半島を縦断。1942(昭和17)年1月31日には先頭の部隊がシンガポールを対岸に臨むジョホールバル水道に到達し、2月8日から本格的な攻撃を開始した。シンガポールは香港と並ぶ英国海軍の根拠地だったが、頼みの英東洋艦隊は日本海軍に主力艦を撃沈され、既に壊滅状態にあった。

 それでも英軍守備隊は頑強に抵抗し、2月15日にようやく降伏を申し出たが、条件交渉をしようとしたため、日本軍司令官の山下奉文中将は「イエスかノーか」と強気に迫ったとされる。ただ、日本軍は長期の行軍を強いられた上、十分な補給もなく、既に弾薬は底を突いていた。日本国内は開戦直後の連戦連勝にわいていたものの、実はぎりぎりの勝利でしかなかった。

ドーリットル爆撃隊が日本本土空襲

1941(昭和16)年12月の真珠湾攻撃以来、日本軍は太平洋戦域で快進撃を続けた。米国軍部は国内の戦意を高めようと、日本本土の空襲を企てたが、航続距離の短い通常の空母艦載機での実行は難しい。そこで、航続距離の長い陸軍の中型爆撃機B25を空母に載せ、日本本土を奇襲する作戦を立てた。

 指揮を命じられたジェームズ・ドーリットル中佐は42年4月18日、日本軍の哨戒線ぎりぎりまで近づいた空母ホーネットから16機のB25を率いて飛び立ち、東京、川崎、横須賀、神戸、名古屋を爆撃することに成功した。ドーリットル爆撃隊は当初から空母への帰還を考えず、中国大陸に離脱した後、搭乗員はパラシュートなどで脱出した。しかし、8人が日本軍の捕虜になり、うち3人は処刑された。

 日本側は爆撃の被害を秘密にしたが、戦後の調査で死亡約90人、負傷約460人、全半焼家屋290戸という大きな損害が明らかになった。また、本土爆撃に大きなショックを受けた日本軍部は、制海圏拡大を狙ってミッドウェー攻略作戦を発動、これが戦局の大きな転換につながった。


ミッドウェー海戦

 ハワイ・真珠湾攻撃で米太平洋艦隊は大きな損害を受けたが、たまたまハワイを離れていた空母部隊は難を逃れ、その後の反撃の中核となっていた。米空母部隊は機動力を生かし、神出鬼没の動きで太平洋地域の日本軍拠点を攻撃しては姿を消す戦術を繰り返し、じわじわと日本側を苦しめていた。日本海軍の連合艦隊は、こうした状況を打開しようと、ハワイの西2000キロに位置する米軍の拠点・ミッドウェー島を攻略し、制海圏の一挙拡大を狙った。

 1942(昭和17)年5月27日、4隻の空母を主力とする機動部隊が広島湾を出港し、6月5日からミッドウェー島の攻撃を開始した。同年5月初旬の珊瑚海海戦で、日本軍は米空母1隻を撃沈、1隻を大破させていた。このため、日本側はミッドウェー攻略で米側が迎撃のために稼働できる空母はせいぜい2隻で、戦力上は圧倒的優位にあると考えていた。しかし、米軍は日本軍の暗号電文を解読して作戦の概略をつかみ、大破した空母も数日の修理で前線に復帰させ、日本の攻撃部隊を待ち受けていた。

 その結果、日本は主力空母「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の4隻が撃沈されるともに、多くの艦載機を失った。日本の空母が飛行甲板上で爆弾の積み替え作業をしている最中に攻撃され、被害が拡大した不運があったとは言え、索敵を怠るなど日本側に明らかな油断があった。連合艦隊が虎の子の空母4隻と錬度の高い搭乗員を一挙に失ったダメージは大きく、これ以降、戦局の主導権は完全に米側が握ることになった。

ガダルカナル島の戦い

 1942(昭和17年)5月、日本軍はオーストラリアと米国の補給路を分断しようと、ニューギニア東南のソロモン諸島に進出。7月に同諸島のガダルカナル島に飛行場建設を始めた。オーストラリアを反攻の拠点とする米国は、すぐさまソロモン諸島の攻略を決意。8月7日に海兵隊1個師団約1万1000人を送り込んでガダルカナル島に上陸し、滑走路ができたばかりの飛行場を占領した。

 日本軍も8月17日に一木支隊先遣部隊900人を逆上陸させ、飛行場奪還を目指したが、堅固な米軍陣地に正面攻撃を仕掛けたため部隊は壊滅した。日本軍はその後も増援部隊を送り込んだものの、物量に勝る米軍との消耗戦となり、補給の続かない日本軍は飢餓に苦しんだ。

 大本営は12月末にガダルカナル島放棄を決定。43(昭和18)年2月からの撤退作戦で陸軍約9800人、海軍約830人を救出したが、同島での戦死者は陸軍約2万800人、海軍約3800人に上った。地上部隊を支援した艦船、航空機の損害も大きく、この戦いで南太平洋戦域の日本の勢力は大きく減退した。

カイロ会談

 1942(昭和17)年のミッドウエー海戦、ガダルカナル島の戦いなどの敗北で、戦局は日本にとって厳しくなってきた。43(昭和18)年になると連合国側は結束を強め、1月14日には2カ月前に占領したばかりの北アフリカのカサブランカで英国のチャーチル首相と米国のルーズベルト大統領が会談。ドイツ、イタリア、日本の3国に対し、部分講和を認めず、あくまで無条件降伏を求めていく方針を決めた。

 また、同年11月22日にはチャーチル首相とルーズベルト大統領がエジプトのカイロで会談し、その席に中華民国の蒋介石首席を招き、27日に3者が署名したカイロ宣言を発表した。そこには、日本が占領した中国の領土はすべて返還させ、それ以外のアジア地域からも日本の勢力を駆逐する方針のほか、日本が無条件降伏するまで戦闘を継続する決意が盛り込まれた。

山本五十六長官が戦死

 1943(昭和18)年4月18日、前線視察のためニューブリテン島のラバウル基地を飛び立った山本五十六連合艦隊司令長官は、ソロモン諸島ブーゲンビル島の上空で搭乗機を米軍戦闘機に撃墜され、戦死した。山本長官は、真珠湾攻撃以来の快進撃を支えた象徴的存在だっただけに、その死が国民に与えたショックは大きかった。

 その後、日本軍は局地的勝利すらないままに敗戦への坂を転げ落ちることになる。実は、このころまでに米軍は日本軍の暗号を完璧に解読し、山本長官の視察日程も筒抜けだった。

 襲撃部隊は16機のP38戦闘機で、ガダルカナル島の飛行場からおよそ700キロを飛行した後、長官機を正確に捕捉して撃墜した。しかし、日本軍は以後も暗号が解読されていることを認めようとせず、こうした情報戦への意識の低さが戦局をさらに不利な方向に導いていった。

インパール作戦

 1944(昭和19)年3月、太平洋方面の戦局悪化を背景に、インドから中国への「援蒋ルート」(蒋介石政権に対する米英の補給路)を分断しようと、日本軍はビルマ(現ミャンマー)からインド北東部アッサム地方のインパールへ攻め込んだ。

 ビルマとアッサム地方の間には1500−2000メートル級のアラカン山脈が横たわり、補給が極めて困難なことから、現地部隊の幹部からも作戦に反対する声は強かった。しかし、第15軍司令官の牟田口廉也中将が作戦実施を強く主張したため、十分な準備もないまま強行された。

 侵攻部隊はアラカン山脈を越え、一部将兵はインパール北方のコヒマまで進出したものの、各所で英軍の頑強な抵抗を受けて進撃は停滞。7月になってようやく作戦中止が決まったが、飢餓に苦しむ兵士たちは雨季でぬかるむ道に足を取られ、撤退は悲惨を極めた。この作戦は正確な参加人員すら分かっていない。攻撃の主力となった3個師団約5万人のうち、2万人以上が戦死・戦病死したと推定されている。

連合軍、ノルマンディーに上陸

 ヨーロッパでも連合国の優位が固まりつつあった。1942(昭和17)年11月に北アフリカに上陸した連合軍は、43(昭和18)年7月にイタリア・シチリア島を攻略、9月には本土上陸を果たし、イタリア政府は降服した。

 その後、連合軍は反攻作戦を本格化させ、44(昭和19)年6月に北フランスのノルマンディー上陸に成功、7月までに100万人の将兵をフランスに送り込んだ。8月にはパリが解放され、ドイツ軍は自国の国境に追い詰められた。東部戦線でも43年1月のスターリングラード攻防戦での勝利をきっかけにソ連が攻勢に転じ、ドイツの敗色は日に日に濃くなっていた。



米軍が零戦を徹底分析

 開戦当初から日本海軍航空部隊の主力となった零式艦上戦闘機「零戦」は、長大な航続力と高い空戦性能で、連合軍戦闘機を圧倒した。1942(昭和17)年、アリューシャン列島で不時着した零戦の機体を回収した米軍は、これを米本土へ持ち帰って修理し、実際に飛行させて徹底分析した。

 その結果、右旋回の操作が難しいことや急降下時にエンジンが止まる可能性があるなど、零戦の弱点が突きとめられた。この分析結果は、連合軍パイロットに詳しく伝えられ、実際の戦闘に生かされた。また、F6Fヘルキャットなど米軍の新型機の開発にも反映されたことで、零戦の優位は徐々にゆらいでいった。

 しかし、日本は有力な後継機種を開発できず、零戦は終戦時まで海軍の主力戦闘機として戦った。生産数は1万機を超え、日本の航空史上で最多の機種となっている。

B29による本土空襲始まる

 1944(昭和19)年8月、サイパン、テニアン、グアムなどマリアナ諸島を制圧した米軍は、ここを拠点に同年11月から日本本土への長距離爆撃を始めた。

 米軍が配備したボーイングB29は、ターボチャージャー付きのエンジン4基を備え、爆弾を最大で9トンも積める高性能の大型爆撃機。最高速度は時速587キロと並みの戦闘機より速く、実用上昇高度は1万1千メートルで高射砲が届かない高空を飛ぶことができた。しかも、航続距離は5230キロもあり、マリアナ諸島を発進した場合、北海道を除く日本本土すべてが爆撃可能範囲に入った。

 B29の空襲に日本側防空部隊は有効な対抗手段を講じることができず、成層圏から不気味に響く爆音は日本国民を恐怖に陥れた。B29は、日本本土に合計16万9800トンの爆弾、焼夷弾を投下。終戦までに延べ3万3000機が爆撃に出動したが、戦闘中の損害は450機に過ぎなかった。

特攻機による攻撃

 1944(昭和19)年10月、米軍はフィリピンへの上陸作戦を開始した。日本軍はこれを阻止しようと、米艦隊に大規模な攻撃を仕掛けたが、その際、特攻機による体当たり攻撃が初めて行われた。最初の戦果は、250キロ爆弾を積んだ海軍の零戦隊が米空母群に突っ込み、1隻を沈没させ、2隻を大破させるというもので、死を覚悟で突入してくる日本軍機に米軍はパニック状態に陥った。

 ただ、米側が警戒体制を整えるようになると、重い爆弾を積んで動きの鈍った特攻機は艦船に近づく前に撃墜されることが多くなった。特攻機による艦船攻撃は海軍だけでなく陸軍航空隊も行い、航空機が不足した末期には練習機まで駆り出された。

 特攻による日本側の戦死者は終戦までに陸海軍を合わせて3650人に達した。戦後明らかになった米側資料によると、45年3月まで米艦隊の視界に入った特攻機は356機で、うち米艦への命中が140機、至近距離の爆発による被害が59機で、特攻機の攻撃を「米艦隊が遭遇した最も困難な防空問題」と分析している。

硫黄島守備隊が全滅

 硫黄島は東京の南1250キロの洋上に浮かぶ小さな火山島で、米軍がB29爆撃機の基地としていたマリアナ諸島と日本本土のちょうど中間地点にある。そのため、日本は防御拠点としてこの島を死守する必要がある一方、米軍はここをB29の中継基地にしようと進出の機会を狙っていた。

 1945(昭和20)年2月16日、約2万人の日本軍守備隊が立てこもる硫黄島に、米海兵隊2個師団が上陸を開始。米軍は上陸前に徹底した爆撃と艦砲射撃を行ったが、日本軍司令官の栗林忠道中将は島内にトンネルを張り巡らせた地下陣地を構築し、徹底的に抗戦した。

 米軍は約6万1000人の兵力をつぎ込みながら、面積が22.4平方キロメートルしかない島を占領するのに1カ月以上も掛かった。日本軍守備隊は捕虜となった約1000人を除いて全滅したが、激しい抵抗を受けた米軍側の死傷者は約2万9000人(うち戦死約6800人)に達し、太平洋戦争で連合軍が反撃に転じて以降、米軍死傷者が日本軍を上回った唯一の戦いとなった。

東京大空襲

 米軍のB29爆撃機などによる空襲は、1945(昭和20)年に入ると全国の都市に拡大した。被害を受けたのは北海道から沖縄にいたる163都市に及び、死者は50万人以上と推計されている。爆撃の目標は軍需施設から一般の市街地に拡大したが、これは非戦闘員にも恐怖を与え、国民の戦意を喪失させるのが目的だった。

 特に東京は終戦まで約130回の爆撃を受けた。3月10日の未明に始まった東京大空襲は約300機のB29が深川地区など下町を中心に約2000トンの焼夷弾を投下。2時間半の爆撃は折からの強風を受けて大火災を引き起こし、およそ40平方キロの市街地が焼失した。

 焼失家屋は27万戸、被災者は100万人以上で、死者数はこの1日だけでおよそ10万人と推定されている。東京は終戦までの爆撃で、市街地のほぼ半分が焼失した。

沖縄戦

 1945(昭和20)年4月1日、米軍は陸軍4個師団、海兵隊3個師団など約20万人の兵力をもって沖縄本島への上陸を開始した。日本は陸軍約8万6000人、海軍約1万人で迎え撃ったが、そのほかに中学生以上の沖縄県民2万−2万5000人が兵士として戦場に投入された。また、高等女学校の生徒ら女子543人も臨時の看護婦などとして従軍した。

 「鉄の雨」を降らせる米軍の物量攻撃に対し、日本側は爆弾を抱えて戦車に体当たりする自爆攻撃などで対抗。米軍は沖縄本島を南北に分断する形で進んだため、狭い南部には10万人以上とみられる一般県民が取り残され、米軍の激しい攻撃の中、まさに地獄絵が展開された。女性や子どもなど非戦闘員の集団自決なども発生し、およそ3カ月の地上戦で県民の戦没者は沖縄全体でおよそ15万人と推定されている。

 日本軍の戦死者は現地召集の兵士も含め約9万4000人、米軍も約1万2000人に上った。海軍守備隊の指揮官だった大田実少将は多くの民間人を巻き込んだ悲惨な状況を目の当たりにし、自決する前に本土へ送った報告電文の最後を「沖縄県民かく戦えり。県民に対し後世特別のご高配をたまわらんことを」という言葉で結んだ。

広島、長崎に原爆投下

 1945(昭和20)年8月6日午前8時15分、広島市上空のB29爆撃機「エノラ・ゲイ」からウラン型原子爆弾が投下された。高度約600メートルでさく裂した原子爆弾は、TNT火薬2万トン分の威力があるとされていたが、巨大なエネルギーは一瞬にして高温の熱線と放射線を発し、すさまじい爆風を巻き起こして通常爆弾とは比較にならない大きな被害をもたらした。

 爆心地から半径2キロ以内の地域は完全に焼き尽くされ、その周辺部も爆風によって家屋の大半が倒壊、広島市は一面の焼け野原となった。死者は爆発時の熱線やその後の火災による焼死のほか、爆風による圧死、残留放射線によって救護に従事した人が時間をおいて死亡するなど、被害は長期にわたって拡大した。正確な被害実態は明らかでないが、広島市は同年12月末までにおよそ14万人が死亡したと推定している。

 さらに、8月9日午前11時2分、B29爆撃機「ボックスカー」が長崎市にプルトニウム型原爆を投下。死者は同年12月までに7万4000人と推定されている。米国は戦争終結を早めるために原爆投下に踏み切ったとしているが、広島、長崎の被爆者は今も後遺症に苦しめられており、その人たちにとっての戦争はいまだに終わっていない。

ソ連が対日参戦

 広島に原爆が投下された2日後の1945(昭和20)年8月8日、中立条約(41年4月調印)を結んでいたソ連が、日本に宣戦を布告した。日本は米英との和平交渉の仲介役をソ連に打診していたほどで、まったくの不意打ちに何の対応も取れなかった。ソ連の参戦は、同年2月に開かれた米英ソ首脳によるヤルタ会談で秘密決定されており、その見返りに南樺太と千島列島をソ連に帰属させることになっていた。

 ソ連との国境地帯に配置された日本軍は、主力を南方戦線に引き抜かれ、戦力は著しく低下していた。これに対し、ソ連軍は対日戦に約150万人の兵力を動員、大量の戦車や航空戦力で日本軍を圧倒し、またたくまに日本の勢力圏だった満州国と朝鮮半島北部を制圧した。さらに、日本がポツダム宣言を受諾した後に千島列島に侵攻し、日本側の守備隊と激しい戦闘が繰り広げられた。

 同年の9月初めまで続いた日ソ戦では、ソ連側推定で戦死者はソ連軍が約8200人だったのに対し、日本軍は約8万人に及んだ。停戦後に捕虜となった日本の軍人、軍属のうち57万人以上がシベリアや中央アジア、モンゴルなどの収容所に抑留され、強制労働を課された。厳しい飢えと寒さで、抑留者のうち死者は約5万5000人に達した。

ポツダム宣言受諾

 1945(昭和20)年に入ると、連合軍は都市爆撃を強化し、本土の国民も直接の戦争被害を受けるようになった。資源は欠乏、国内の工業生産力も著しく低下し、戦争遂行が難しいことは明らかだったが、同年1月に政府は本土決戦への方針を固める一方、10代の少年から40代までを召集して本土決戦の戦力とした。

 7月26日、米英中3国首脳による日本への無条件降伏勧告「ポツダム宣言」が発せられた。日本政府はこれを黙殺しようとしたが、広島(8月6日)、長崎(8月9日)への原爆投下、ソ連対日参戦(8月8日)などに追い詰められ、8月14日の御前会議でポツダム宣言受諾を決定し、連合国側に通告した。

 この事実は、15日正午の玉音放送で国民に伝えられた。太平洋戦争の人的被害は正確に分かっていないが、日本では民間人も含めておよそ250万人が死亡し、アジア諸国での死者は1800万人に上ると推定されている。

戦艦ミズーリ艦上で降伏文書調印

 日本がポツダム宣言を受諾した2週間後の1945(昭和20)年8月28日、米軍の第一次進駐部隊が神奈川県の厚木飛行場に着陸した。2日後には連合国最高司令官として占領地である日本の最高権力者となった米国のダグラス・マッカーサー元帥が厚木飛行場に降り立った。

 9月2日には東京湾上の米戦艦ミズーリ号の甲板で降伏文書の調印式が行われた。日本側の全権団は重光葵外相、梅津美治郎参謀総長らで、これを迎えたマッカーサー元帥は「相互不信や憎悪を超え、自由、寛容、正義を志す世界の出現を期待する」との演説で終戦を宣言した。

 降伏文書が調印されたことにより、足かけ5年にわたる太平洋戦争は公式に終了した。以後、51(昭和26)年9月の対日講和条約調印まで、日本は連合国の占領下に置かれることになった。

極東軍事裁判

 日本のA級戦犯を審理するため、1946(昭和21)年5月から極東国際軍事裁判が始まった。日本で戦争の指導層となった軍人、政治家ら28人が起訴され、平和に対する罪、人道に対する罪などで裁かれた。

 被告らはあくまで自衛のための戦争だったと主張したが、48(昭和23)年11月の判決では、裁判中死亡した被告などを除く25人が有罪となった。このうち板垣征四郎、木村兵太郎、土肥原賢二、東条英機、広田弘毅、松井石根、武藤章の7人が死刑判決を受け、同年12月23日に絞首刑が執行された。

 戦勝国インドの代表として東京裁判に参加したパール判事が、勝者が敗者を裁く戦争裁判の正当性に疑問を投げ掛け、被告全員の無罪を主張したことは有名。