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沖縄戦(おきなわせん)または沖縄の戦い(おきなわのたたかい)とは、第二次世界大戦末期の1945年昭和20年)、沖縄諸島に上陸した米軍英軍を主体とする連合国軍日本軍との間で行われた戦いの総称である。連合軍側の作戦名はアイスバーグ作戦: Operation Iceberg、氷山作戦)。琉球語では、Ucinaaikusa 【ウチナー〈沖縄〉いくさ〈戦、軍〉】ともいう[33]

概要

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沖縄戦は1945年(昭和20年)3月26日から始まり、主な戦闘は沖縄本島で行われ、沖縄本島での組織的な戦闘は4月1日に開始、6月23日に終了した。連合国軍の目的は、日本本土攻略のためのマリアナの基地と共同体制をとれる対日本本土爆撃のための航空基地確保と、九州南部および関東平野の侵攻作戦(ダウンフォール作戦)の補給基地の確保であった。日本軍の目的は、大本営(主に日本海軍軍令部[34] 特別攻撃隊を主力とする航空攻撃により連合国軍に大打撃を与えて、有利な条件で講和を結ぼうという『一撃講和』を目指していたのに対し[35]、現地の第32軍司令部は当時想定されていた本土決戦[注釈 2] に向けた持久戦を意図するという不統一な状況であった[35]。第32軍はサイパンの戦いなどで失敗した水際防御を避け、ペリリューの戦い硫黄島の戦いで行われた内陸部に誘い込んでの持久戦(縦深防御)を基本方針として戦い、特に首里(現・那覇市の一部)北方で激戦となった。海上では大本営の決戦構想に基づき特別攻撃隊を中心とした日本軍航空部隊が攻撃を繰り返し、戦艦大和」などの日本海軍残存艦隊による「沖縄特攻」も行われた。

1945年(昭和20年)5月末に第32軍の首里司令部は陥落し、日本軍は南部に撤退したが6月下旬までに組織的戦力を失い、6月23日には牛島満司令官らが自決。その後も掃討戦は続き、連合国軍は7月2日に沖縄戦終了を宣言し、最終的な沖縄守備軍の降伏調印式が行われたのは9月7日である。

陸海空において両陣営の大兵力が投入された。連合国軍のアメリカ軍側の最高指揮官であった第10軍司令官サイモン・B・バックナー・ジュニア中将が日本陸軍の攻撃で戦死するなど、フィリピンの戦い硫黄島の戦いと並び太平洋戦域のみならず第二次世界大戦における最激戦地のひとつとなった。使用された銃弾砲弾の数は、連合国軍側だけで2,716,691発。このほか、砲弾60,018発と手榴弾392,304発、ロケット弾20,359発、機関銃弾3,000万発弱が発射された[36]地形が変わるほどの激しい艦砲射撃が行われたため「鉄の暴風(: Typhoon of Steel)」等と表現される[注釈 3]。残された不発弾は、70年を経た2015年平成27年)でも23トンにものぼり、陸上自衛隊などによる処理が続く。1トン爆弾も本土復帰の1972年(昭和47年)以降だけでも6件見つかっている。

沖縄での両軍および民間人を合わせた地上戦中の戦没者は20万人とされる[37]。その内訳は、沖縄県生活福祉部援護課の1976年3月発表によると、日本側の死者・行方不明者は188,136人で、沖縄県外出身の日本軍兵士が65,908人、沖縄出身者が122,228人、そのうち94,000人が民間人で28,228人が現地召集の将兵である[38][39][40]。戦前の沖縄県の人口は約49万人であり、実に沖縄県民の約4人に1人が亡くなったことになる[41]。アメリカ軍側は死者・行方不明者20,195人[42][43][注釈 4]となったが、これは1944年12月に戦われた、西部戦線最大の激戦の1つであるバルジの戦いの戦死者最大約19,000人[注釈 5]を上回り[45]、アメリカ史上でも、オーヴァーロード作戦第一次世界大戦におけるムーズ・アルゴンヌ攻勢に次いで3番目に死者が多い戦いであった[46]。戦傷者は最大で55,162人[47]、戦闘外傷病者26,211人[22]を加えた人的損失は実に投入兵力の39%という高水準に達したため[48]ハリー・S・トルーマン大統領らアメリカの戦争指導者たちは大きな衝撃を受けて、のちの日本本土侵攻作戦「ダウンフォール作戦」の方針決定に大きな影響を及ぼした[49]。 イギリス軍は死者85人であった[29]。(日本側被害の詳細は#住民犠牲についてを参照)

北海道占守郡における「占守島の戦い」や樺太庁全域における「樺太の戦い」、また東京都硫黄島村(現小笠原村)の硫黄島に於ける「硫黄島の戦い」などと並び太平洋戦争末期の日本領土における主要な地上戦のひとつであり、2010年(平成22年)に日本政府は国会質問への答弁書をつくる際、「経験を風化させることなく、次の世代に継承することが重要であると認識している。」と回答している[50]

背景

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日本軍の戦略

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作戦会議を行う第32軍司令部。一番左が司令官の牛島、中央で指揮棒を持って説明しているのが参謀長の長

1944年(昭和19年)に入りトラック島空襲など連合国軍の太平洋正面での反攻が本格化してくると、マリアナ諸島などを前線とする絶対国防圏での決戦を構想していた当時の日本軍は、後方拠点として南西諸島の防備に着手した[51]。1944年2月に日本陸軍は沖縄防衛を担当する第32軍を編成、司令官には渡辺正夫中将が任命された。もっとも、この時点での第32軍の主任務は飛行場建設であり、奇襲に備えた警備程度の兵力であった[51]。同年4月には、海軍も沖縄方面根拠地隊を置いたが、その司令官は九州・沖縄間のシーレーン防衛を任務とする第4海上護衛隊司令官を兼務し、防衛戦力というより後方組織としての性格が強かった。

沖縄に配置となった第24師団歩兵第22連隊の満州での出陣式

日本軍が本格的に沖縄地上戦の準備に取り組んだきっかけは、1944年7月にアメリカ軍の攻撃を受け絶対国防圏の要であるサイパン島が陥落したことであった。大本営は、捷二号作戦を立案して沖縄周辺海上での航空決戦を企図するとともに、陸上の第32軍の増強にも着手した[52]、1944年7月に第32軍の参謀長に就任した 長勇少将は、早速大本営参謀本部に乗り込むと「沖縄本島には5個師団を増強せよ!吾輩の意見を採用せず、ために沖縄が玉砕するようになれば、参謀本部は全員腹を斬れ」と怪気炎を上げている。参謀本部も長の要求に応えるかのように1944年7月に沖縄本島に第9師団、7月末に宮古島第28師団、8月に第24師団第62師団を増派、諸砲兵部隊を統括する第5砲兵司令部も配置、その司令官には砲兵の権威だった和田孝助中将が充てられるなど、沖縄本島を中心とする南西諸島には4個師団、混成5個旅団、1個砲兵団の合計18万人の大兵力が配置されることとなった[53]。その中で増援の独立混成第44旅団が乗った軍隊輸送船富山丸」がアメリカ軍潜水艦に撃沈され、4,000人近くが死亡、到達したのは約600人という、先行きを不安視させる事件も起きている。

戦力増強が進む中で司令官の渡辺は疲労により持病の胃下垂が悪化、病床につくこととなってしまった。渡辺の希望により病状は中央に伏せられていたが、病状が一向に回復しなかったため、長らはやむなく軍中央に渡辺の病状を報告し、1944年8月11日に陸軍士官学校の校長であった牛島満中将が新たな第32軍司令官として着任した[54]。牛島は同郷(鹿児島県)の偉人西郷隆盛に例えられるような[55] 泰然自若とした父親のような人物であり、部下将兵からは尊敬されていた。陸軍士官学校や陸軍公主嶺学校などの校長を歴任した教育畑の経歴ながら、歩兵第36旅団旅団長として日中戦争では武功を重ねており[56]、アメリカ軍からは「牛島将軍は、物静かな、極めて有能な人で、全将兵が心服していた。」と評価されている[57]

第32軍の高級参謀は八原博通大佐であった。八原は最年少で入学した陸軍大学校(第41期)を優等で卒業し、アメリカに留学歴もあるエリート軍人で、尚且つ理性的で知己的な欧米型の思考を持つ軍人であり、理詰めで地味だが確実に成功する戦術を唱える、日本陸軍では異端の軍人であった[58]。のちにその作戦に苦戦させられることになったアメリカ軍から八原は「すぐれた戦術家としての名声をほしいままにし、その判断には計画性があった」と高く評価されることとなった[57]

当初、八原は充実した戦力で、敵上陸時に主力を機動させての決戦を計画した[59]。連合国軍の上陸点を小禄牧港嘉手納のいずれかと想定、3か所の上陸予想地点にそれぞれ1個師団ずつを配置し、連合国軍が上陸してきたら、その担当師団が構築した陣地に立て籠もり上陸軍を橋頭堡にて阻止、その間に2個師団が上陸地点に向けて進軍し集結(移動は敵航空機の攻撃のない夜間)、上陸2日目の夜に砲兵の全力を結集し橋頭堡の殲滅射撃を実施、その後歩兵が突撃し上陸軍を粉砕するという作戦を考え、各師団に機動の猛訓練を行わせた[60]

長は、海際で上陸軍を阻止する強固な陣地構築に必要な鑿岩機20台の支給を要求し、大本営も確約したが、いつまで待っても鑿岩機が到着しないため、長は大本営や陸軍中央から何らかの要求や連絡があるたびに鑿岩機をしつこく要求し続けた。その内大本営や陸軍中央では長と言えば鑿岩機が連想されるほど有名となった[61]

第32軍首脳陣は、マリアナやフィリピン戦での航空作戦の経過を見て航空作戦に疑念や不信を抱いており、飛行場より地上戦備強化に注力していたが、航空作戦重視の大本営はそれを「手抜き」と厳しく第32軍を非難した。大本営陸軍部はまず作戦課航空班長の鹿子島中佐を沖縄に派遣、鹿子島は第32軍参謀を「今回、貴軍に強力な地上兵力を増加したが、航空作戦準備に十分な協力をされない場合は、増加した地上兵力を他に移さねばなりません。」と脅すと、第32軍もさすがに折れて、大本営の方針を受け入れることとした[62]。大本営は飛行場作りの名人と言われた飛行場設定練習部部員釜井中佐を第32軍参謀に補職し、戦闘部隊を建設作業へ大規模投入して飛行場設営が急ピッチで進められた[63]

飛行場の扱いについては、航空決戦の為の飛行場重視の大本営などの中央と、地上戦備重視の第32軍の考えの違いが連合国軍上陸後の作戦にも大きく影響することとなった。

第32軍の作戦準備と並行して、沖縄島民の疎開も進められた。(#アメリカ軍上陸前の住民の動き(避難)

第9師団の転出

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沖縄に第24師団を残留させる要因となった同師団が装備していた四年式十五糎榴弾砲

1944年10月にフィリピンでレイテ島の戦いが起きると、状況は変わった。レイテ島の戦いに先立つ台湾沖航空戦で日本海軍が誤報した連合国空母多数撃沈の過大戦果を前提に、大本営は捷一号作戦(フィリピン決戦)を決意し、レイテ島への戦力増派に進んだ[64]。大本営は沖縄から1個師団、姫路から1個師団、朝鮮から1個師団、満州から1個師団、台湾から1個師団の合計5個師団のレイテ投入を考え[65]、第32軍に「第32軍より、1兵団を比島(フィリピン)方面に転用することに関し、協議したきにつき、八原大佐を11月3日夕刻まで台北に参集せしめられたし」という電文を打った。受け取った第32軍は激高し、八原が作成し牛島が裁可した「沖縄から1兵団を抽出されたら、沖縄の防衛に責任は持てない」「抽出するなら宮古島第28師団であれば可」「沖縄より1個師団抽出し他から1個師団を沖縄に補充する計画なら、その師団を直接比島に増派すべき」「沖縄から1個師団を抽出されるぐらいなら、むしろ第32軍主力が国軍の決戦場比島にはせ参じることを希望する」という返答を準備し、1944年11月3日に台北の第10方面軍司令部で開催された、大本営、第10方面軍、第32軍の会議に八原を出席させた[66]

会議ではまず最精鋭の第10師団のフィリピン転出を打診されている第10方面軍の市川参謀が「台湾軍は既に1個師団引き抜かれており、さらに第10師団まで持っていかれたのでは、後に残るのは2流師団3個だけで、これでは戦えない。沖縄と比較して台湾は広大であるから、沖縄から1個師団引き抜くと言うなら台湾にいただきたい。」と意見を述べた。市川の次に八原は持参した返答を読み上げたが、その後は長から台湾への出発前に「黙っているのが最上」と訓示された通り、何の意見も言わなかった。この会議に大本営から出席した服部卓四郎第2作戦課長は、姫路の第84師団をフィリピンではなく、1個師団を抽出された後の沖縄に転用する腹案を持っていたが、八原ら第32軍の大本営の方針を一笑し一蹴する意見具申にその腹案を提示することもできず、また八原の態度で会議の場も気まずい抗立の空気のまま、何ら結論を出すことなく散開となった[67]

台北会議後の1944年11月11日に、まず中迫撃第5、第6大隊(15cm迫撃砲24門)がフィリピン方面へ転用が命じられ、軍砲兵隊による橋頭堡殲滅射撃の構想に大きな影響を及ぼした[68]。 その後の11月13日、大本営から「沖縄島に在る兵団中、最精鋭の1兵団を抽出するに決せり。その兵団の選択は軍司令官に一任す。」という命令が届いた。八原は自分が作成した意見書が全く考慮されなかったことに激しい憤りを覚えたが、牛島と長は冷静に受け入れ、八原は不承不承、抽出する師団の選定を行った。沖縄の精鋭師団は第9師団第24師団のいずれかであったが、第9師団は日清戦争日露戦争でも活躍した歴史のある師団で、よく訓練行き届いた精鋭師団ながら山砲師団で、新設師団で兵士の訓練度では劣るものの野砲師団で四年式十五糎榴弾砲まで装備していた第24師団の方が砲火力が勝っていたため、八原は第24師団を残すこととし、第9師団を「最精鋭師団」として軍から手離すという意見書を作成した[69]。 八原の意見書に基づき、第9師団が1944年12月中旬から翌1945年1月中旬にかけて台湾へ移動し、第32軍は兵力の三分の一近くを失った[70]。第9師団は、台北会議での第10方面軍の要望通り、フィリピンに転用された第10師団の代わりに台湾に配置されることとなり、そのまま終戦を迎えることとなった[71]

このような配置転換の最中に沖縄県営鉄道輸送弾薬爆発事故が発生し、多くの人命とともに大量の弾薬・物資を失う悲劇に見舞われている。

戦略持久作戦への転換

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沖縄から台湾へ転出となった第9師団歩兵第35連隊の兵士

第9師団の台湾抽出により、第32軍は大幅な作戦変更を迫られる事となった。八原は、戦力補充はあてにせず現兵力をもって最善を尽くす方針で4つの作戦案を提案し、第32軍司令部はその中から、現有戦力に最も適した地形となる沖縄本島南部島尻地区に主防御陣地を構築し、持久戦術を取る作戦案を採用した[72]。今までの機動決戦方針を断念して本島南部での持久戦を行う作戦計画で、本島中部に配置されていた第24師団を南部に移動し、北部・中部の飛行場は小部隊による遅滞防御と砲撃による利用妨害程度にとどめることを決めた[59]。第32軍は度重なる作戦変更や兵力の増減により何度も部隊配備が変更になっており、その度に陣地の再構築を余儀なくされたが[注釈 6]、この作戦案に基づき1944年(昭和19年)11月末から12月上旬にかけて行った再配備に伴う陣地構築が最終形となった[74]。作戦変更により、本島中部に位置する北・中飛行場は主陣地外となり、実質的に防衛を放棄している状況になった[75]

大本営では、1944年12月、大本営陸軍部(参謀本部)作戦部長に宮崎周一中将が就任したが、この時にはアメリカ軍を中心としたレイテ島の戦いで日本軍は敗北し、ルソン島の戦いの最中でフィリピンの日本軍の敗勢は明らかで、宮崎は不眠不休で「本土決戦方針」の新作戦計画を作成すると、その新作戦案が基礎となった『帝国陸海軍作戦計画大綱』が陸海軍で決定されて、1945年1月19日に陸軍梅津美治郎参謀総長と海軍及川古志郎軍令部総長が列立奏上した[76]

その頃に、台北会議で服部が持っていた第9師団の代わりの第84師団(姫路)の沖縄派遣という腹案は、宮崎中将の前任の真田穣一郎作戦部長を通して梅津の裁可を受けて上奏も終えており、1945年1月22日に第32軍に内示された。この内示を受けた第32軍幕僚らには久々の笑声が湧いた[77]。しかし、その内示を知った宮崎は梅津を訪ねるとすぐに第84師団の派遣を中止すべしと強硬に進言した。梅津は一度上奏までした派遣を中止するという前例はなかったため当惑したが、宮崎はさらに「沖縄への海上輸送はもう無理です。1兵たりとも惜しむべき本土防衛の戦力を、今ここで海没の犠牲にすることは、自分の理性が許しません。」と進言し、梅津は沈思黙考の上で宮崎の進言を受け入れた。これは梅津を含め日本軍の最高首脳部にも、本土決戦以外に道はないという考えが浸透していたことによるものと思われる[78]。その後に、宮崎が服部に第84師団派遣中止を告げると、それを聞いた服部の部下の作戦第2課の沖縄方面担当参謀の羽場安信少佐が、血相を変えて梅津の部屋に飛び込み「沖縄の1個師団は本土の2,3個師団に相当する、もう現地に内示している、海上輸送が危険と言っても全部はやられない、1/3の損害は覚悟している。」と激しく詰め寄ったが、梅津は派遣中止の決定を撤回することはなかった。その後、羽場は宮崎にも激しく意見したが、宮崎は羽場をいなすだけであった[79]

第32軍にも、第84師団増派による作戦計画を考える間もなく1月22日の夜には派遣中止の電報が入った。この経緯から第32軍は大本営に不信感を抱き、その後の作戦に支障をきたした[80]。この後、第10方面軍参謀長諫山春樹中将が沖縄を訪れ、八原ら参謀に「今後、第32軍には増兵はされない。比島方面に輸送できなくなった軍需品を第32軍に与える。」と第10方面軍内での武器・弾薬の補給を約束した後で「大本営は本土決戦準備に熱中しており、我々は現有の戦力で戦うだけである。」と軍中央の状況を説明した。結局、最後まで第32軍には軍中央から正式に本土決戦方針の企図が示されることはなく、諌山らから間接的に聞いただけであった[81]

『帝国陸海軍作戦計画大綱』によれば「南千島、小笠原諸島(硫黄島ヲ含ム)沖縄本島以南ノ南西諸島、台湾及上海附近」を「皇土防衛ノ為、縦深作戦遂行上ノ前縁」と位置づけ「右前縁地帯ノ一部ニ於テ状況真ニ止ムヲ得ズ敵ノ上陸ヲ見ル場合ニ於テモ極力敵ノ出血消耗ヲ図リ且敵航空基盤造成ヲ妨害ス」としており、沖縄は硫黄島などと同様に、日本本土の前縁として敵の出血・消耗を強いる防波堤と想定していた。沖縄戦における日本軍の作戦は、これを以て「捨て石作戦」と呼ばれている。[82][注釈 7]

一方、海軍は天一号作戦を定めて、沖縄へ来攻する連合国軍を航空戦力主体で迎撃して大打撃を与え、有利な講和をもちかける一撃講和を考えていた[35]。そのため、大本営は飛行場確保を重視して第32軍に作戦変更を要求したが、第32軍は応じないまま連合国軍を迎えることになった[35]

日本軍の戦力状況

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砲爆撃に耐えるため洞窟内に放列布置した独立重砲兵第100大隊の八九式十五糎加農。重加農の長所を活かし、アメリカ軍占領後の中飛行場(現嘉手納飛行場)に対しても妨害砲撃を行うなど、約2ヶ月間に渡り活躍した

沖縄本島地区における最終的な日本側の陸上兵力は、116,400人とされるが、日本本土から戦闘部隊として派遣されたのはその中で50,000名だった。他に海軍陸戦隊で実際に武器の操作ができるのが3,000名、軍の後方部隊が20,000名であり、残りの約35,000名が防衛召集された沖縄県民だった[1]

第32軍は戦力不足を補うため、自力戦力増強として同じく地上戦が行われた南樺太、北千島、択捉、国後、色丹、歯舞、満洲などと同様に、戦闘員としても住民を根こそぎ動員した。沖縄県民の17歳以上45歳未満の男子を召集して、第32軍の各部隊や「防衛隊」と俗称される補助兵力に編入したが、沖縄からは既に30,000名が召集され沖縄県外の部隊に従軍しており、合計65,000名が兵士として召集されたこととなり、青年男子無しと言っても過言ではない状況となった[1]

他に旧制中学校の生徒から成る鉄血勤皇隊や、女子生徒を衛生要員としたひめゆり学徒隊白梅学徒隊なども組織され、その数は2,000名以上にも達している[84]。(現地住民の戦闘協力の詳細は#住民の戦争参加を参照)

本島守備隊の主力は、関東軍から転用された第24師団であった。前述の通り、第32軍の選定により沖縄に残存した部隊で、台湾に転用された第9師団と比較すると強力な師団砲兵を有していたことが[注釈 8]、大きな選定理由となっていた[68]。もうひとつの本島所在師団である第62師団は師団砲兵を欠いた本来は警備用の編制であったが、大陸打通作戦に参加したことにより、実戦経験豊富な精強な戦闘部隊となっていた[85]独立混成第44旅団は輸送船の撃沈で大損害を受けた部隊で、補充のため千葉で集められ一〇〇式輸送機で空輸された独立混成第15連隊が主力になった。機甲部隊は30両に満たない戦車第27連隊があるだけだった。兵站部隊や船舶部隊も地上戦闘用に使うため6個の特設連隊として再編されている。また、八原は牛島に軍司令部要員などの冗員を第一線に回すよう進言している[86]。このように第一線の戦力の強化が進められたが、当時の第32軍の評価で真の陸戦兵力といえるのは約4万人に過ぎなかった[87]

第32軍の歩兵戦力が戦力不足だったのに対し、砲兵戦力は当時の日本軍としては極めて充実していた。第5砲兵司令部指揮下だけで400門以上の火砲を擁すほか、砲兵師団1個と独立混成旅団砲兵隊および戦車第27連隊の機動砲兵、また歩兵部隊中の歩兵砲があった。生産力や補給力に劣る当時の日本軍において、このような大量の火砲が投入されたのは第1砲兵隊が投入された緒戦の一連の南方作戦香港の戦いシンガポールの戦いフィリピンの戦い(コレヒドール島砲撃戦)等)や、硫黄島の戦い等に限られる。アメリカ陸軍の公式戦史も、沖縄の日本軍について従前の日本軍と大きく異なる点として、日本軍相手では経験したことがない多数の火砲とその効果的な運用を指摘している[88]。アメリカ軍は戦訓広報誌「Intelligence Bulletin」において「日本軍が過去10年にわたって準備してきた沖縄防衛作戦は、那覇首里与那原防衛線強化のために用いられた火力支援の質、量の面で卓越したものであった。沖縄の日本軍砲兵は、連合軍が太平洋戦線で遭遇したなかでもっとも有効であった。」と評価していたが、実際には沖縄の防衛作戦が真剣に検討され準備を始めたのは、第32軍が沖縄に配置された1944年2月で、持久作戦に方針転換したのは第9師団が転出となった1944年末以降のことであり、10年ではなくわずか半年足らずの準備であった[89]

特に日本軍火砲が効果を挙げた「シュガーローフの戦い」においては、アメリカ海兵隊員は「やつら(日本軍)は牛乳瓶の中にでも弾を撃ち込むことができた」とその正確性に驚愕し、後に編纂された第6海兵師団の戦史では「日本軍の砲撃はこれまで出会った事が無いほど、優れた統制と正確さの下で実施された」と纏められている[90]。ある時には観測地点で敵情観察中のアメリカ海兵隊将校らのど真ん中に砲撃を命中させ、大隊長と戦車隊将校ら5名を戦死させ、中隊長3名に重傷を負わせるといった正確性を発揮している[91]

八原博通第32軍高級参謀の「寝技戦法」について

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伊江城山の日本軍陣地、各砲座や銃座は地下坑道や壕で結ばれ、山全体が要塞化されている状況が記載されている。この様な要塞が至る所に構築された。
日本軍の構築した反斜面陣地。手前に見える洞窟が反対斜面に築かれた洞窟陣地

大本営陸軍部は、1944年(昭和19年)8月19日に、アメリカ軍を相手にしたサイパン島の戦いグアムの戦いの戦訓を十分に取り入れ作成した「島嶼守備要領」を太平洋各地の島嶼守備隊に指示している。同要領では特に、アメリカ軍の猛烈な砲爆撃に対抗できる陣地の選定要領や戦闘要領が強調されていた[92]。 また、大本営陸軍部第一課が前線からの報告を纏め編纂した「戦訓報」でも、サイパンの失敗と対策やペリリュー島の戦いの善戦は各部隊に伝えられており、沖縄戦に先立つ硫黄島の戦いでは戦訓を活かして坑道陣地による持久戦術を徹底し、アメリカ軍を苦戦させている[93]

八原の作戦計画も「島嶼守備要領」に沿うものであり、硫黄島と同様に戦訓を十分活かすべく、アメリカ軍やイギリス軍による砲爆撃対策として強固な陣地作りに心血を注いでいる[94]。八原は講道館柔道家がアメリカの屈強な拳闘家を相手に異種格闘技戦をしたときに[注釈 9]、柔道家は終始寝技で拳闘家の強烈なパンチを封殺し、遂に快勝したという講談本からヒントを得ており[96]、この作戦を『寝技戦法』と自ら称した[97]。 寝技戦法の中心は築城であり、連合国軍艦艇の艦砲射撃や1トン爆弾などの強烈なパンチがあっても、それを跳ね返す堅固な築城があれば、敵の物量を無価値にできると考え、戦車も対戦車築城を徹底させれば恐れるに足らずとも考えた[98]。 八原参謀は「不可能を可能にする唯一の道は強固な築城であり、洞窟戦法である。」との『寝技戦法』の基本方針を記した「必勝の途」というパンフレットを作り全軍に布告し、全将兵に徹底した築城を命じた[98]

沖縄戦でアメリカ軍を苦しめた八九式重擲弾筒(手前と中央の兵士が擲弾筒手、写真はマレー作戦のもの)

対するアメリカ軍は、猛烈な砲撃で日本軍の反撃を封殺し、日本軍陣地の頂上に這い上がった歩兵が、日本軍陣地に黄燐弾を投げ込み、爆雷を投下し、ガソリンを流し込んで皆殺しにする『トーチ&バーナー戦術』で日本軍陣地を一つ一つ壊滅させていった。この対抗策として日本軍は、頂上を占拠された日本軍陣地に、隣接する友軍陣地の機関銃、擲弾筒、野砲で集中攻撃して、逃げ場のないアメリカ歩兵を殲滅する戦法で対抗した。これは、占拠された自軍の陣地をまな板のように見立てていることから『まな板戦法』と呼ばれたが、この戦法でもっとも猛威をふるったのが日本軍の擲弾筒であった[99]。擲弾筒は沖縄戦でアメリカ軍兵士がもっとも恐れた兵器の一つで、前線で戦ったアメリカ軍兵士の評価は「それ(擲弾筒)はあらゆる兵器のなかでもっとも猛威をふるった」「擲弾筒の弾丸の飛んでくる音は目標となっている者には聞こえず、聞こえたときには手遅れだった。非常に大きな損害をこうむったものだ」「その砲弾をアメリカ軍の頭上に落下させることができたし、それほど弾着が正確でとくに嫌われていた」であった。歩兵第22連隊第1大隊(大隊長小城正大尉)は特に擲弾筒を有効活用してアメリカ軍を苦しめており、日本軍は通常は小隊ごとに4筒の擲弾筒を配備して使用していたが、小城は合計36筒の擲弾筒を大隊直轄として集中使用した。アメリカ軍は、攻撃部隊の中・小隊に集中砲撃を浴びせたこの小城の戦法を「異例なほど効果的なやり方」と評価している[100]

陣地構築に際しては、コンクリートなどの資材は不足していたが、沖縄の南部地域は、固くてツルハシも通らないような隆起珊瑚礁と柔らかい泥灰岩や砂岩で広く覆われており、それら地層をうまく活用して陣地が構築された。陣地構築については第32軍兵士の他、多くの沖縄県民も動員された[101]。それで完成した隆起珊瑚礁の陣地は、アメリカ軍の砲爆撃でも容易には破壊されなかった。また、多数存在した天然の洞穴や、沖縄独特の墓である亀甲墓がその堅牢な構造からトーチカ代わりに使われ陣地の一部となった[102]

実際に日本軍の陣地と対峙したアメリカ軍は、太平洋戦域の各戦場を戦い抜いてきた歴戦の兵士も多かったが、この沖縄の日本軍地下陣地が、今までの戦場で見てきた日本軍陣地における巧妙や複雑さなどの利点を全て兼ね備えていると痛感させられている。砲爆撃に耐える堅牢さだけでなく、陣地は網の目の様な地下坑道で連結されて地下移動による補給や兵員の補充も容易で、防御から攻撃への切り替えもできるなど巧妙な設計となっていた。出入り口は擬装されており、攻撃しているアメリカ軍の後方に不意に出現し、背後から攻撃する事も可能であった[103]。 アメリカ陸軍は沖縄の頑強な日本軍陣地を「小ジークフリート線」や[104]「常軌を逸して防衛された陣地」と評している[105]。海兵隊員のある士官は「土に埋まった戦艦のようだった」とも評した[106]

シュガーローフの戦いで威力を発揮した『反斜面陣地』も多く構築されている。『反斜面陣地』とは、敵と相対する斜面ではなく反対斜面に構築された陣地であり、反対斜面にあるのでアメリカ軍の砲撃では中々破壊されず、アメリカ軍が山頂に達すると、反対斜面の陣地で砲爆撃をやりすごした日本軍が、迫撃砲や擲弾筒や手榴弾投擲で山頂のアメリカ軍を攻撃したり、網の目のように張り巡らされた地下坑道を伝ってきた日本軍が背後から攻撃してくるといったもので、今までのアメリカ軍が経験したことがない戦法であった[107]。シュガーローフでは、巧みな日本軍の陣地構築で「死傷者が続出しているのに日本兵の姿は全く見えない」「丘(シュガーローフ)から弾は飛んでくるが日本兵は全く見えないので、丘を相手に戦ってる気分だった」という状況であった[108]

第32軍司令部も首里城地下に構築された。八原は司令部構築に莫大な労力と資材を投入することに反対したが、参謀長の長の強い主張により構築が決定された。多数の市民と沖縄師範学校生徒の協力により、1944年12月に構築が始まった司令部壕は総延長1,000m以上、深さ15m~35mで、戦艦の艦砲射撃や爆撃機の1トン爆弾に耐えられる構造で連合軍上陸直前の3月中旬に完成した。後にこの司令部は首里戦線の核心となり、防衛戦の要となったことから、八原は長の軍司令部構築の判断に敬服している[109]

連合国軍の戦略

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アメリカ軍の沖縄上陸作戦計画図
十・十空襲に遭う那覇市街

連合軍は、沖縄本島の存在について、有力な航空基地と泊地を設置可能で日本本土と中国大陸のいずれに侵攻する際の作戦拠点にもできる島と考えていた[110]。また、沖縄諸島の基地化により、日本の南西方面の海上航路・航空路を遮断することもできると見ていた[110]。他方、連合国軍がフィリピンへ侵攻した場合には、日本軍の反撃拠点となりうる島であるとも警戒していた。

1944年8月時点での連合軍の戦略では、沖縄本島よりも先に台湾を攻略することが計画されていた[111]。台湾を拠点とした後に、中国大陸あるいは沖縄県のいずれかへ進撃することが予定された。台湾の攻略作戦についてはコーズウェイ作戦 (Operation Causeway 日本語で土手道のこと) の名の下に具体的な検討が進められ、すでに上陸部隊の司令官には、連合国軍の1国であるアメリカ陸軍サイモン・B・バックナー・ジュニア中将が決まっていた[112]

ところが、9月中旬になってレイテ島上陸の予定繰上げが決まり、フィリピンでの泊地確保もより早く行える可能性が出てくると、アメリカ海軍チェスター・ニミッツ提督らは台湾攻略以外の選択肢について再検討を始めた[113]。アメリカ陸軍も、ルソン島さえ占領すれば台湾は無力化できると考えて、台湾攻略中止に同調した[113]。そして、新たな日本本土空襲の拠点を求めていたアメリカ陸軍航空軍が、台湾より日本本土に近い小笠原諸島や沖縄本島がその拠点に相応しいと考え、南太平洋地域陸軍司令官且つ第20空軍の副司令官ミラード・F・ハーモン英語版中将がコーズウェイ作戦を中止し、小笠原諸島や沖縄本島を攻略目標とすることを提案し、コーズウェイ作戦の指揮官に内定していたバックナーも、南太平洋地域での補給部隊と支援部隊の不足を理由にハーモンの意見に同調した。陸軍の意見にアーネスト・キング海軍作戦部長も同意し、1944年10月2日にルソン島、小笠原ついで沖縄の順で攻略することが決定した[114]。計画では10月20日のレイテ島上陸、12月20日のルソン島上陸、翌1945年1月20日の硫黄島占領に続いて、3月1日に沖縄諸島へと上陸することとなった[115]。バックナー中将は、台湾上陸部隊の司令官から、そのまま沖縄上陸部隊の司令官へと任務が変更された[116]。バックナーと沖縄攻略を主張したハーモンは、アメリカ軍が硫黄島に上陸した直後の1945年2月26日に、沖縄攻略を含む今後の太平洋方面の戦略を協議するため、グアムからハワイに向かう途中に搭乗していたB-24が墜落して行方不明となり、沖縄上陸を見ることなく死亡と認定された[117][118]

さっそくレイテ島への侵攻作戦に着手した連合国軍は、事前に日本軍の反撃戦力を削る航空撃滅戦として沖縄県周辺や台湾などを攻撃した。1944年10月10日、アメリカ軍とイギリス軍を中心とした機動部隊が南西諸島一帯に対して大規模な空襲を行い、所在の日本軍航空機や艦船は大きな打撃を受けた(十・十空襲)。偵察活動も進められたが、1944年12月末に偵察任務で沖縄へ向かった潜水艦「ソードフィッシュ」が未帰還となった[119]ペリリュー島の戦いで行われた偵察上陸では半数の人員が未帰還という大被害を出していることも踏まえて、偵察要員の事前上陸は見送られた[120]

沖縄戦で上陸部隊を支援した第38任務部隊。手前が空母「エセックス」、奥が戦艦「ワシントン

1945年3月、連合軍は、予定よりは遅れながらもルソン島攻略硫黄島攻略をほぼ完了した。このときまでには、日本本土上陸作戦であるダウンフォール作戦の立案もされており、沖縄本島は、九州上陸を支援する拠点として利用されることに決まっていた。ルソン島攻略の遅れによる輸送船不足と3月の悪天候により沖縄侵攻は2度にわたって繰り下げられ、当初計画からはちょうど1ヶ月遅れで、沖縄攻略を目的とした「アイスバーグ作戦」が発動されることとなった[121]。投入される陸上戦力はアメリカ陸軍第10軍の陸軍5個師団・4個戦車大隊ほかとアメリカ海兵隊3個師団であった[122]。第10軍自体は新編成の組織であるが、主力の第24軍団と第3水陸両用軍団に属する師団はいずれも実戦経験を積んだ部隊であった[123]

装備についても、陣地攻撃に絶大な威力を発揮してきた火炎放射器装備のM4中戦車の射程・火力強化型、暗視スコープ付きの狙撃銃近接信管の野砲砲弾、対砲兵の音波探知機、M18 57mm無反動砲M20 75mm無反動砲M2 107mm迫撃砲などの新型兵器が多数配備された[124]。アメリカの軍需産業はフル回転しており、軍事資材の面では全く懸念はなかった。従って第10軍は装備、士気、武器、補給と、どの面から見ても、アメリカ軍史上最強の軍と見られていた[125]

これらの部隊を沖縄に上陸させるため、アメリカ軍は太平洋戦争で最大規模の水陸両用作戦を準備した。沖縄攻略の為の統合遠征部隊は艦船1,213隻と支援艦載機564機で編成されていた。この部隊を第58任務部隊の高速空母部隊82隻、艦載機919機とイギリス太平洋艦隊22隻、艦載機244機が支援した。他にも第21爆撃集団極東航空軍も直接支援を行った[126]。最大の問題はこれらの大部隊を養うだけの大量の物資を絶え間なく輸送する必要があることで、まずは当面の740,000トンもの物資をアメリカ本国やハワイなどから、沖縄上陸40日前から21回の輸送で、前線基地のあるレイテ島ウルシー環礁マリアナ諸島に輸送した。その中には収容を見込んでいる沖縄の民間人の食糧として、米や大豆や魚の缶詰など70,000人分の食糧も含まれていた[127]

ノルマンディー上陸作戦を含む多くのヨーロッパ戦線の激戦に従軍し、前年にピューリッツァー賞を受賞した従軍記者のアーニー・パイルは沖縄攻略部隊の陣容を「我々は太平洋航海史上、最大・最強の軍隊だ」「海軍力・兵力・戦闘力の点でアメリカがヨーロッパに投入した全兵力に匹敵する規模だ」と記述している[128]。実際に、攻撃初日に投入された陸戦兵力は182,000名であり、これは史上最大の作戦といわれたノルマンディー上陸作戦のD-デイに投入された兵力を75,000名も上回っていた[129]

アメリカ軍情報部は沖縄本島の日本軍の兵力を55,000人~65,000人、大口径火砲198門と推定しており、沖縄攻略作戦は1カ月前後の短期作戦と想定していたが、この戦力推定は大きく誤っており、迅速な勝利の希望はたちまちしぼんでいった[130]

戦闘経過

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事前攻撃

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アメリカ軍は、日本軍の反撃戦力を削ぐことなどを目的に、空母16隻を中心とした強力な機動部隊の第58任務部隊を日本本土へと差し向けた。第58任務部隊は1945年3月14日にウルシー環礁を出撃、3月18日から九州や瀬戸内海周辺の飛行場や艦隊などに対し空襲を開始した[131]。これに対して日本軍は、海軍の第5航空艦隊を中心に反撃を行った。4日間の戦闘で、日本軍は空母3隻の撃破に成功したものの、第5航空艦隊は戦力の過半を失ってしまった(九州沖航空戦)。アメリカ艦隊の損害は、イギリス軍機動部隊の合流により回復することができた。

3月23日、第58任務部隊は沖縄県周辺に対する本格空襲を開始し、初日だけで延べ2,000機を出撃させた。24日には沖縄への増援部隊を乗せたカナ304船団を全滅させている。また、24日には第59任務部隊の戦艦5隻などが本島南部に対する艦砲射撃を行い[132]、上陸予定地点の掃海作業も始まった[133]。このほか日本の海上輸送を破壊して戦争遂行能力を失わせるため、B-29爆撃機による日本本土空襲や関門海峡はじめ、主要港湾、航路や海峡などへの機雷投下も行われ(飢餓作戦)、今や沖縄は孤立させられてしまっていた[134]

ガダルカナル島ラッセル諸島パヴヴ島英語版で訓練や編成を行っていたアメリカ軍部隊を満載した大量の輸送船団はウルシー環礁で合流すると、3月25日に沖縄に向け進撃を開始した。同様にサイパン島からも進攻部隊が進撃を開始した[135]

一方日本軍では、硫黄島上陸作戦以降のアメリカ軍の次期侵攻の方面と時期について、連合軍の船舶の動き、航空基地の整備状況、通信諜報等で分析努力を行っていたが、確定させるには至らなかった。陸海軍で侵攻目標の予想が割れており、海軍は小笠原諸島と考え、陸軍は台湾と判断していた[136]

慶良間諸島の戦い

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渡嘉敷沖の浅瀬で撃沈されたアメリカ駆逐艦「ハリガン」

3月23日に、沖縄本島に延べ355機の艦載機による空襲があり、その他先島諸島大東島地区・奄美地区にも艦載機の空襲があった[137]。その後、日本軍の索敵機が、同日午前10時30分に沖縄本島南東90kmに機動部隊を発見、さらに夕刻沖縄本島東方100kmに艦艇群(艦種不詳)も発見している[137]

これに対する日本側の情勢判断は、3月19日時点では、大本営陸軍部は次のアメリカ軍の侵攻地を台湾方面の公算大と判断しており[138]第32軍も23日時点では大本営の判断もあって、沖縄への本格的な侵攻であるかの判断ができなかった。しかし、翌24日に沖縄本島南部へ戦艦以下30隻のアメリカ軍艦船が現れ艦砲射撃を開始、また延べ600機にも上る艦載機による激しい空爆が行われた為、第32軍司令部はアメリカ軍の上陸が沖縄に行われると判断し[139]、甲号戦備[注釈 10] 移行を命じた。

日本海軍の連合艦隊司令長官も、近く沖縄へアメリカ軍が来攻するものと判断し、回天特攻「多々良隊」の潜水艦4隻にも出撃準備を命じた。また同日に天一号作戦の予令を発令、第3航空艦隊と第10航空艦隊に移動準備を指示している[140]。多々良隊の「伊44潜」「伊47潜」「伊56潜」「伊58潜」は3月28日から順次沖縄方面に出撃したが、戦果を挙げることなく「伊44潜」と「伊56潜」の2隻を失った。

空襲翌日の3月24日には早くも日本側の反撃が開始され、天山艦攻による雷撃、翌25日未明には陸攻銀河による爆撃でアメリカ艦隊を攻撃し、駆逐艦2隻、その他2隻を損傷させている[140]。また、沖縄の海軍根拠地隊司令官の大田実少将が、運天港特殊潜航艇部隊である第2蛟龍隊に出撃を命じている。蛟龍はこの戦いが初陣となったが、駆逐艦「ハリガン」撃沈後に壊滅した[注釈 11]。この日、第32軍参謀長の長勇は司令部壕の坑口に「天ノ巌戸戰闘指令所」の木札を掲げた[142]

沖縄本島に艦砲射撃をおこなう戦艦「アイダホ

3月26日、アメリカ軍は、沖縄本島への上陸に先立ち泊地や水上機基地などを設置するため、第77歩兵師団慶良間諸島座間味島など数島へ上陸させた[143]。日本軍は慶良間諸島は地形が険しい狭い島で航空基地の適地もなく、沖縄本島に先立っての侵攻を想定していなかったため[144]、地上部隊をほとんど配備していなかった。展開していたのは、本島防衛任務の四式肉薄攻撃艇(マルレ)部隊である陸軍海上挺進戦隊3個とその支援部隊程度であった。第32軍司令部は出撃困難と判断して機密保持のためマルレの処分を命じた。すでに事前空襲で300隻のマルレの多くを地上撃破されていた各部隊は、命令に従って島の奥へ後退した。慶留間島所在のマルレのうち4隻のみが出撃して、うち2隻が攻撃後に本島へ生還した。アメリカ軍は29日までに慶良間諸島全島を占領した。アメリカ軍第77歩兵師団の記録によると、31日までに日本兵530人が戦死・121人が捕虜となり、アメリカ兵31人が戦死・81人が負傷した[145]

アメリカ軍の慶良間諸島上陸と同じ3月26日に、日本側では陸軍第10方面軍司令官と海軍連合艦隊司令長官が、天一号作戦を発令した[146]。同日中には早速、陸海軍の通常攻撃機46機が薄暮にアメリカ機動部隊を攻撃、また第8飛行師団誠第17飛行隊の九九式軍偵6機とその他8機合計14機の特攻機が慶良間沖のアメリカ艦隊を攻撃した[注釈 12]。本特攻隊は少数ながらも戦果は大きく、駆逐艦「オブライエン英語版」大破・死傷者126名、駆逐艦「キンバリー」中破・死傷者61名、他に軽巡洋艦「ビロクシ」と駆逐艦2隻を損傷させている[149]。翌27日には沖縄本島の中飛行場から出撃した第8飛行師団誠第32飛行隊と海軍神風特攻隊の銀河や彗星合計26機が嘉手納沖のアメリカ艦隊を攻撃、戦艦「ネバダ」の第三主砲塔に1機が命中、14インチ砲を破壊し59名の死傷者を出させるなど、16隻の艦船に損害を与えている[150]。その後も沖縄本島や周辺諸島からの特攻出撃は続き、31日には誠第39飛行隊の一式戦「隼」が、レイモンド・スプルーアンス中将率いる第5艦隊旗艦重巡「インディアナポリス」に命中、大破・航行不能にさせている[150][注釈 13]。しかし、陸海軍ともに本土や台湾からの本格的な航空攻撃は4月に入ってからとなり、沖縄本島上陸前の時点では日本側の航空攻撃は未だ散発的であった。また、29日には本島配備の海上挺進第29戦隊のマルレ19隻が出撃し、中型揚陸艦1隻を撃沈している。

3月31日、アメリカ軍は慶伊瀬島に上陸した。そのうち慶伊瀬島の神山島に第420野砲群(仮訳:420th Field Artillery Group)のM59 155mmカノン砲(愛称ロング・トム)24門を布陣させ、沖縄本島の日本側陣地の奥深くまでを射程圏内に収めた[151]。ロング・トムの射程は20,000m以上もあり、日本軍の火砲で神山島のロング・トムに対抗できそうなのは、長堂西側高地に配置してあった八九式十五糎加農砲2門のみで多勢に無勢であった。しかし、四六時中傍若無人に砲撃してくるロング・トムに手を焼いた日本軍はやむを得ず八九式十五糎加農砲に反撃を命じたが、結局、神山島までは砲弾が届かないことが判明した[152]。4月1日にも、日本軍は第420野砲群への反撃と、上陸準備のために岩礁上で障害物除去などの作業をしているアメリカ軍に対して砲撃をしたが、アメリカ軍に被害はなかった[153]

那覇港内にある船舶工兵第26連隊長佐藤少佐から、ぜひ選抜隊をもって神山島に斬り込みをかけたいとの申し出が第32軍司令部にあった。アメリカ軍の絶対制海権下で斬り込みの成功は危ぶまれたが、打つ手のなかった第32軍はこの申し出を取り上げて、参謀薬丸兼教少佐を中心に準備を進めた。4月9日に西岡少尉以下半数が糸満漁夫で編成された50名の斬り込み部隊は、協力予定の海軍の大発動艇が故障で参加できなかったので、刳舟を人力で漕いで神山島に突入した。生還者は西岡少尉以下わずか十数人と犠牲は大きかったが、ロング・トムの何門かが破壊されて、3日間に渡って神山島からの砲撃が止まったため、第32軍全軍が西岡らの英雄的行為に感謝している[154]

先島諸島の戦い

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特攻機の命中で艦載機が炎上するイギリス海軍空母「フォーミダブル

ヨーロッパでドイツ海軍が壊滅したことから、イギリス首相ウィンストン・チャーチルは太平洋の権益確保の意味合いもあり、かねてから太平洋戦域へのイギリス艦隊派遣を希望していた。

イギリスは1944年11月22日に編成のイギリス太平洋艦隊としてキング・ジョージ5世級戦艦2隻(キング・ジョージ5世ハウ)、イラストリアス級およびインプラカブル級空母4隻(イラストリアス、ビクトリアス、インドミタブルインディファティガブル)、巡洋艦5隻、駆逐艦15隻の強力な機動部隊を沖縄戦に派遣している[155][156]。このイギリス艦隊は、先島諸島方面の封じ込め担当することになった。

3月15日、イギリス太平洋艦隊米国第5艦隊に加わり第57任務部隊(TF57)としてアイスバーグ作戦に参入。3月23日にウルシー環礁を出撃したイギリス太平洋艦隊は、4月1日に日本軍が先島諸島に建設した航空中継基地に宮古島沖で発見され、特攻機による攻撃を受けた。零戦1機が空母「インディファティガブル」に命中、戦死21名・負傷27名の人的損害を受けたが、英空母は日米空母とは違い、航空甲板は戦艦並みの装甲板であり致命的な損傷を受けなかった。それでも艦橋構造物に大きな損傷を受けレーダーや無線装備も全て破壊された為、英本土に後退している[157]。その後も英太平洋艦隊は、宮古島沖で台湾方面から飛来する特攻機の迎撃や地上支援任務を行っていたが、後に増援された艦も含めて4隻の空母(前記「インディファティガブル」を含めると5隻)全てが特攻機により損傷を受けている。

沖縄本島へのアメリカ軍の上陸

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4月1日沖縄本島に上陸するアメリカ軍海兵隊
大量の軍需物資を揚陸するアメリカ軍揚陸艦

4月1日朝、アメリカ軍は守備の薄い本島中西部で、第7第96歩兵師団第1第6海兵師団による上陸を開始した[158]。戦艦10隻・巡洋艦9隻・駆逐艦23隻・砲艇177隻が援護射撃をし、127mm以上の砲弾44,825発・ロケット弾33,000発・迫撃砲弾22,500発が撃ち込まれた[159]。北飛行場(読谷村・後の読谷補助飛行場)と中飛行場(後の嘉手納飛行場)の占領が第一目標とされた。第32軍が宜野湾以南に結集して持久作戦をとる方針であったために、日本側が中西部沿岸地域に置いたのは賀谷支隊(1個大隊基幹)と急造の特設第1連隊だけであった[160]。日本軍が水際作戦を放棄したため、アメリカ軍はその日のうちに6万人を揚陸して北・中飛行場を確保。4月3日には第7歩兵師団が東岸の中城湾(アメリカ軍呼称:バックナー湾)へ到達し、第32軍は沖縄本島南北に分断された[161]。4月5日までにはうるま市石川周辺の東海岸一帯が占領下に入った。日本軍は飛行場を自ら破壊していたものの、作業期間が短く不徹底であった。アメリカ軍は1日夜には中飛行場を不時着場に使える程度まで復旧、8日には北飛行場へ戦闘機89機を進出させて上陸船団の防空任務を開始した。翌週には夜間戦闘機まで含む144機が展開して強力な防空網を形成してしまった[162]

第32軍の持久戦方針による早期の飛行場の喪失は、大本営・第10方面軍司令部・航空関係者などから消極的かつ航空作戦軽視と批判の的にされた[163]。アメリカ軍の沖縄本島上陸前からの不信が戦いの最中に露見する結果となった。度重なる大本営や連合艦隊の飛行場再確保の要請は第32軍司令部を混乱させ、第32軍内部でも積極反撃すべきか激論が交わされた。4月4日には、長第32軍参謀長主導[注釈 14]で攻勢移転が一時決定されたが[165]、島南東部の港川方面への連合軍上陸部隊接近との報告により、中止された[166]。この港川方面への「上陸部隊」は、陽動作戦任務のアメリカ第2海兵師団で、実際には上陸しなかった。

アメリカ軍はたびたび、沖縄南東側に陽動作戦をしかけており、沖縄本島上陸直前の1945年3月27日にも、沖縄本島東岸の中城湾に輸送船等からなる9隻の囮船団を近づけている。海軍根拠地隊の司令官大田実少将はこの囮作戦に引っかかってしまい、指揮下の特攻艇震洋に出撃を命じたが、囮船団は海岸近くまでは接近してこなかったため攻撃する機会はなく、そのまま基地に帰投した。その様子を偵察機で偵察していたアメリカ軍により震洋の発進基地は特定され、艦載機による空襲で、アメリカ軍上陸前に海軍の特攻艇はほぼ壊滅してしまった[167]。陸軍の特攻艇マルレは慶良間諸島占領で主力を失っていたが、残存艇が散発的な攻撃でアメリカ軍に打撃を与えており、1945年4月9日には「チャールズ・J・バジャー英語版」をキールが歪み大量浸水する甚大な損傷で大破航行不能に追い込んでいる[168]

4月7日、特攻機の命中で炎上している空母「ハンコック

4月6日から、日本軍は特攻機多数を含む航空機による大規模反撃を、連合軍艦隊・船団に対して開始した(菊水作戦)。海軍による菊水一号作戦には約390機、陸軍の第一次航空総攻撃には約130機が投入された。さらに海軍は、菊水作戦と連動させる形で戦艦「大和」以下の第一遊撃部隊も出撃させることとした。大和の出撃前に連絡を受けた牛島は連合艦隊に「ご厚意は感謝するが、時期尚早と判断するので、海上特攻の出撃は取止められたし」と自重を求める打電をしたが、出撃は決行され「大和」以下は戦果なく一方的に空襲を受け撃沈される結果となった(坊ノ岬沖海戦[169]

菊水1号作戦の日本軍の方針は「可能な限り多数の飛行機を集団的に使用する」であり、太平洋戦争中での日本軍による最大級の航空攻撃となった[170]。アメリカ海軍はフィリピンで特攻により多大な損害を被ったため、様々な特攻対策を準備して沖縄に侵攻した。そのなかのひとつが、半径100㎞の巨大な円周上に主力艦隊や輸送艦隊を包み込むようして、レーダーピケット艦を配置して、レーダーピケットラインを張り巡らすというものであったが[171]、想定を超える特攻機の数に、レーダーピケットライン自体が特攻機の猛攻を受けることとなってしまい、レーダーピケット艦のうちの1艦であった駆逐艦「コルホーン」のレーダー担当士官は「これは大変だ、何機いるだろうか」と叫んだ直後に、40機の特攻機に僚艦の駆逐艦「ブッシュ」と集中攻撃され、2隻とも2機ずつの命中と多数の至近弾を浴びて沈没、「ブッシュ」の艦長兼第98駆逐艦隊司令J.S.ウィリス中佐以下多数の将官と将兵が戦死している[172]。また、特攻機対策として、各空母の艦上爆撃機艦上攻撃機を減らして大量に搭載された艦上戦闘機が特攻機を迎撃して大量に撃墜したが、それでも355機の特攻機の内200機までに沖縄周辺海域への突入を許して、アメリカ海軍は多大な損害を被った[173]

日本軍は菊水1号作戦で戦艦2隻轟沈を含む69隻撃沈破という驚異的な戦果を挙げたと報じたが、アメリカ軍の記録では駆逐艦3隻、重砲の大口径砲弾7,600トンを満載したビクトリー船2隻[173]戦車揚陸艦1隻撃沈、正規空母「ハンコック」、戦艦「メリーランド」大破などの34隻撃沈破であった[25][23]。日本軍の戦果報告は過大ではあったが、実際にも連合軍に多大な損害を与えたことには変わりなく、この成功で特攻作戦への自信を深めた日本軍は、こののちも10回に渡って菊水作戦を続けていくことになる[174]

この空海からの反撃にあわせて、第32軍も第10方面軍の指導で再び総攻撃実施を決定していたが、またも港川方面への陽動部隊接近に惑わされ出撃を中止した[166]。同時期には中国方面航空作戦を担う陸軍第5航空軍から派遣された、独立飛行第18中隊分遣隊の一〇〇式司令部偵察機「新司偵」III型甲が、沖縄本島のアメリカ軍占領下飛行場および洋上の機動部隊に対する強行偵察に成功し、鮮明な航空写真を沖縄方面航空作戦を担う第6航空軍にもたらした[175]。占領された沖縄の飛行場には、大量のアメリカ軍機が配備されて日本軍の航空作戦の最大の障害となり、陸軍航空隊の重爆撃機や海軍航空隊の陸上攻撃機、夜間戦闘機隊芙蓉部隊による執拗な攻撃が行われていくこととなった[176]

沖縄本島北部の戦い

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名護市街(1945年4月)
伊江島で戦死した直後の従軍記者アーニー・パイル

日本軍第32軍の作戦計画では本島南部を主戦場とすることになっていたため、北部(国頭地区)には独立混成第44旅団の第2歩兵隊主力(1個大隊)程度しか配備されていなかった。これに対してアメリカ軍は第6海兵師団を主力として攻撃をかけた。八重岳などの山地帯に拠って日本軍は抵抗したが、4月18日に本部半島突端に達し、22日までに制圧が完了した。

この戦闘での第6海兵師団の損害は、戦死・行方不明243人、負傷1061人であった[177]。なお、北部は住民の避難地域に指定されていたため推定8万人[178] の住民が県内疎開してきており、アメリカ軍の管理下に入ることとなった。ただし、北部にいた住民のうち、かなりの者はアメリカ軍の北上後に山中に逃れて南進し、すぐには収容所に入らなかった[179]

4月16日に、アメリカ軍第77歩兵師団は、本島の北西海上に浮かぶ伊江島に飛行場と海上防空用のレーダーサイトを設置するため上陸した[180]。伊江島には、独立混成第44旅団第2歩兵隊第1大隊650名を基幹とする日本軍守備隊2,000人(約半数は現地召集の特設部隊)が配置されていた。島民は人口8,000人のうち5,000人が残留していた。日本軍は島民多数とともに抵抗し激戦となったが、21日までに全島が占領された。アメリカ軍によれば、日本側は民間人多数を含む4,706人が戦闘により死亡し、3人が捕虜となった[181]。アメリカ軍は218人が戦死または行方不明となり902人が負傷したほか、中戦車60両・自走砲6両が被撃破(うち完全喪失は5両)などの大きな物的損害を受けた[181]。アメリカ軍の戦死者には、前年にピューリッツァー賞を受賞した従軍記者のアーニー・パイルも含まれていた。生き残った住民は、渡嘉敷島へ移された[182]

日本軍が伊江島に保有していた陸軍飛行場は、3月のうちに徹底的に破壊のうえ放棄されていた。アメリカ軍は復旧作業を進め、5月10日までに最初の戦闘機隊を伊江島飛行場へ進出させた[182]。滑走路・誘導路・レーダーサイトが完成したのは5月中旬で、その後も工事は続き、6月14日までに3個の戦闘機隊と1個の夜間戦闘機隊が展開している[182]

沖縄本島南部の戦い

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第32軍の方針は前述の通り「軍主力は沖縄本島南半部を徹して国頭郡山岳地区に転位して戦略持久を策する」[72] との首里地下に置かれた司令部を中心とした沖縄本島南部での持久戦術であり、沖縄戦のほとんどの期間が南部攻略に費やされた。その為、南部での戦いを前・中・後期に分け記述する。

沖縄本島南部の戦い前期 嘉数高地陥落まで

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首里戦線前衛陣地の戦い

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南部のアメリカ軍の進撃は順調で、当初は予定通りのスケジュールで前進していた。日本軍の抵抗が少なかった為、第10軍の現地指揮官の中には日本軍の抵抗が既に崩壊してると感じている者もいて、そのような現地の空気を反映してか、海軍上陸軍司令官リッチモンド・K・ターナー中将が太平洋艦隊司令チェスター・ニミッツ大将に「私の頭がおかしくなったのかもしれないが、当地における日本軍は戦闘を行う意思がない模様である」と冗談まじりに報告したほどであったが、ニミッツは報告書の訂正を求めている[183]。ニミッツはペリリューの戦い硫黄島の戦いでの苦戦の経験から、日本軍の島嶼防衛の戦法を熟知しており、日本軍は艦砲射撃を浴びながら海岸線を防衛することを避けて、内陸部でアメリカ軍に出血を強いる戦法をとってくると確信していた[184]

撃破されたM4中戦車

第32軍は飛行場付近の平地の防衛を実質的に放棄していたが、賀谷與吉中佐に率いられた第62師団独立歩兵第12大隊(賀谷支隊)をアメリカ軍の進撃を遅滞させる目的で配置している。賀谷支隊はわずか1,000名の戦力で数万のアメリカ軍と対峙することとなったが、指揮官の賀谷はこの戦いに際して部下将兵に「通常は防御は3倍の敵に対すると言うが、今度の戦闘は何十倍という常識を越えた敵に対する戦闘で、既に常識外れの戦闘だ」「自分と自分の部下の命、国を護るため最善を尽くさなければならない、大敵といえども恐れず、最善を尽くすことのみを考えよ」と訓示している。賀谷支隊の将兵は「酒と女には弱いが戦には強い」と指揮官の賀谷を慕っており、日中は既設の陣地に入って進撃してくるアメリカ軍と戦い、夜に移動して後方の新しい陣地に入って翌朝に進撃してくるアメリカ軍を足止めするといった戦術を粘り強く続けた。賀谷支隊は5日朝に第62師団の主陣地隊まで戻ったが、半数の将兵を失いながら、アメリカ軍の戦車10輌撃破と600名の敵兵を倒したと報告しており、同時に第62師団主力に「砲兵主力の協力さえあれば、米軍恐れるに足らず」との戦訓も報告し、師団の士気を大いに高めている[185]。このように、沖縄戦南部の戦いの序盤は賀谷支隊が孤軍奮闘し、圧倒的なアメリカ軍相手に4月2日〜5日まで野嵩および新垣のラインでアメリカ軍の進撃をよく阻止して、十分に進撃遅滞の任務を全うしている[186]

アメリカ軍は日本軍の抵抗を排除しながら首里(現那覇市の一部)の司令部を目指して南進するが、海岸線での防衛戦を避け内陸で上陸軍を待ち構えていた日本軍に丘陵地形で進撃を止められた。その前哨基地は、ピナクル(日本軍呼称「161.8高地」)にあったが[130]、4月5日にはアメリカ軍がピナクルに達した。同高地を防衛する独立歩兵第14大隊第一中隊(谷川中隊)を主力とするわずか150名の日本軍は、構築した地下陣地を活用し圧倒的なアメリカ軍の攻撃を7〜8回撃退したが、アメリカ軍は地下陣地に爆薬から黄燐手榴弾までを使用して攻撃、谷川中隊の生存者はわずか30名と為り撤退、6日にはピナクルはアメリカ軍の手に墜ちた(ピナクルの戦い[187]

アメリカ軍はその後全線に渡って進撃を開始したが、4月7日には各所で日本軍の頑強な陣地に阻まれ、進撃は停止した。第7歩兵師団はレッドヒル(日本軍呼称「北上原陣地」)を攻撃したが、歩兵と援護の戦車10両と装甲車5両のアメリカ軍部隊に対し、日本軍は対戦車地雷と梱包爆弾により戦車3両をたちまち撃破、アメリカ軍歩兵を擲弾筒などによる砲撃と機銃掃射で後退させ、戦車を孤立させたのちに戦車を肉弾攻撃し撃退している[188]。沖縄戦において、重火器を含む総合的な火力では、圧倒的優勢であったアメリカ軍だったが、こと近距離の歩兵戦では、日本軍に火力で遅れをとることもあった。日本軍の歩兵部隊が小隊規模で擲弾筒を装備していたのに対して、アメリカ軍歩兵は中隊規模でも同様な支援火器はなく、また分隊レベルの支援火器が日本軍は軽機関銃であったのに対し、アメリカ軍はブローニングM1918自動小銃であり、弾倉が20発の容量と少なく、また銃身交換が容易にできず、射撃の持続性で軽機関銃に劣っていた[189]。日本軍が沖縄戦で主に使用した九九式軽機関銃の1分間の発射速度は約800発で、M1918自動小銃やアメリカ軍の主力機関銃ブローニングM1919重機関銃の約2倍の発射速度であり、九九式軽機関銃の甲高い発射音はアメリカ軍兵士に女性の叫び声のように聞こえて恐れられた[190]。そして、第32軍には、フィリピンに送られるはずだったこの九九式軽機関銃や九二式重機関銃が第10軍より大量に支給されており、第32軍の各師団は通常の編制より火器の装備密度が高かった[191]。この豊富な火力によりアメリカ軍の歩兵と戦車を分離させて撃破する戦術は、沖縄戦では他の戦闘でも多用され[192]、アメリカ軍は速射砲や機銃陣地の火力支援を受け、その前面で爆薬で戦車に決死攻撃をかける日本兵が潜む塹壕を「蜘蛛の穴」と呼んで警戒することとなった[193]

4月3日の戦況上奏の際に、昭和天皇大元帥)が梅津陸軍参謀総長に対し「(沖縄戦が)不利になれば今後の戦局憂ふべきものあり、現地軍は何故攻勢に出ぬか」と下問した。その下問を受けて梅津は「第32軍に適切な作戦指導を行わなければならぬ」と考え[194]、大本営陸軍部は第32軍に対しアメリカ軍に奪われた北・中飛行場の奪回を要望する電令を発した[195]。さらに沖縄戦を最後の決戦と位置づける連合艦隊からも、北・中飛行場を奪還する要望が第32軍に打電されている[196]。これらの督促を受けて、長第32軍参謀長は攻勢を主張、八原高級参謀は反対するも、牛島軍司令官は北・中飛行場方面への出撃を決定した。4月8日と12日に日本軍は夜襲を行ったが、第62師団の2個大隊が全滅するなどかえって消耗が早まった[197]。夜襲失敗の状況などを考え、13日には第32軍の方針は一旦は八原高級参謀主張の持久方針に固まった[198]

日本軍をロケット弾で攻撃するF4Uコルセア

ジョン・リード・ホッジ少将率いる第24軍団の第7歩兵師団と第96歩兵師団の2個師団は、日本軍の激しい抵抗に苦戦し、4月8日〜12日までに合計2,880名の死傷者を出したが[183] 宇地泊高地、嘉数高地、和宇慶高地を結ぶラインに構築された日本軍の首里前面の防衛線に達していた。4月19日にホッジ軍団長は、第10軍直轄予備隊である第27歩兵師団を増援に追加した配下の3個師団に対して、嘉数と和宇慶高地を速やかに攻略し、首里の中枢まで一気に進撃する作戦を命じた[199]

19日は夜が明けるやアメリカ陸海軍の航空機650機がナパーム弾で日本軍の陣地を爆撃、戦艦5隻、巡洋艦6隻、駆逐艦6隻が艦砲射撃を加えた。限られた区域にこれほど激しい砲爆撃がくわえられたことは太平洋戦争では初めてであったが、その後さらに重砲による19,000発の砲撃が加えられた。第24軍団はこの集中砲爆撃で日本軍陣地を破壊できたものと確信していたが、実際は巧妙に構築された日本軍の陣地にほとんど損害はなかった。強固な日本軍の陣地の中でも、第96歩兵師団が攻撃した嘉数高地が、地形要因にも恵まれもっとも強固な陣地となっていた(嘉数の戦い)。第96歩兵師団は隣接して進撃する第27歩兵師団から戦車の支援を受けながら、嘉数高地および隣接して一体の陣地を形成している西原高地に猛攻を加えたが、日本軍の激しい砲撃と機関銃の射撃で歩兵に死傷者が続出し足止めされ戦車が孤立すると、巧みに隠され配置されていた一式機動四十七粍速射砲の集中砲撃を受け、反撃する間もなく次々と撃破された。特に嘉数村落附近が最大の激戦となり、日本軍は速射砲の他に、10㎏の爆薬を詰めた段ボール大の木箱を抱えた日本兵が戦車に体当たりしてきた。19日の1日だけで日本兵の体当たり攻撃で6輌のM4中戦車が撃破されたが、この体当りで履帯を破壊されて擱座した戦車に日本兵が群がり、ハッチを開けて車内に手榴弾を投げ込み戦車兵を全て殺傷したため、爆薬箱を抱えた日本兵はアメリカ軍戦車にとって大きな脅威となった[200]。結局この日に嘉数高地を攻撃した30輌の戦車の内22輌が完全撃破され、無事に帰還したのは8輌に過ぎなかった[201]

和宇慶高地を攻撃した第7歩兵師団も日本軍の猛攻にほとんど進撃できず、この日唯一前進した第27歩兵師団の歩兵も、前進できたのは日本軍がいなかった低地帯のみで、日本軍の抵抗線に差し掛かると前進は止められた。結局この日のホッジ軍団長の作戦は失敗に終わり、第24軍団全体では720名の死傷者を出す大損害を被って撃退される結果に終わった[106][202]

この後も嘉数高地を強行を続けた第96歩兵師団は多大な出血を強いられる事になった。日本側はその強固な陣地を最大限活用し、主陣地を守備した第62師団が激しい抵抗をしている[203]。4月21日にホッジ軍団長は第27歩兵師団副師団長ウィリアム・B・ブラフォード准将に嘉数高地攻撃の指揮を委ねたが、21日~22日にかけて日本軍は激しい砲撃を加え、陣地を出て夜襲をかけてきたため、逆にブラフォードは第24軍団に予備1個大隊の増援を頼み、戦線を辛うじて維持した[204]

19日の総攻撃失敗以降、アメリカ軍は嘉数以外への日本軍陣地にも艦砲射撃を含む砲爆撃を徹底的に浴びせ[注釈 15]、多数の戦車を伴い、防衛線全線に渡って攻撃を継続していた。特に、ペリリュー島の戦い以降、日本軍陣地の攻撃手段として行ってきた「ブロートーチ(溶接バーナー)と栓抜き作戦」[注釈 16] での陣地攻撃により、善戦していた日本の第62師団も大きな損害を被っていた。

第62師団は歩兵旅団を2個統合して編成された師団で、師団砲兵も持たず、日本軍の師団の中では三流と評されていたが、大陸打通作戦で実戦経験を積み、特に山岳戦の経験が深い精強な師団となっていた。師団将兵らの合言葉は「見敵必殺、玉砕御免」で、地下壕内の陣地で頑強に戦い、アメリカ軍3個師団を相手に善戦し大損害を与えていた[185]。牛島は第62師団に感状を授与し、中でももっとも善戦した第63旅団の旅団長中島徳太郎少将は中将に昇進している[207]。22日まで日本軍はアメリカ軍に1日あたり1mの進撃も許さなかったが、19日〜23日までの激戦で第32軍も戦死2,490名負傷2,665名の損害を被っており、日本軍の防衛線は全線で綻び始めていた[208]。第32軍司令部は、アメリカ軍が南部から再上陸し、防衛線の背後を突いてくるという懸念から、喜屋武半島の第24師団と知念半島の混成旅団ら軍主力を、警戒のため現地に留めていたが、八原は22日に、軍主力を首里防衛線に投入することを決断し、第24師団と独立混成第44旅団に北上を命じた。23日には戦線整理として、第62師団に撤収と陣地変換を命じている[209]

その頃、ホッジ軍団長は嘉数高地を一気に攻略するため、配下の3個師団から精強な4個大隊を選りすぐり、それに戦車、火炎放射戦車、自走砲、自走榴弾砲を支援につけ特別部隊を編成しブラフォードを指揮官とした。この部隊は指揮官の名前から『ブラフォード特攻隊』と呼ばれ、24日の朝から遮二無二嘉数高地を目指したが、日本軍は戦線整理のため既に撤退しており、ブラフォード特攻隊は大した抵抗も受けずに24日中に嘉数を確保した[210]

「為朝岩」は琉球へ逃れたとされる為朝伝説にあやかり、大正時代に名付けられた。
撃破された日本軍のトーチカ

撤退した第62師団はまた速やかに防衛線を構築しており、今までを上回る激戦が各地で戦われた。特に撤退した第62師団の3個大隊と増援の第24師団の歩兵第32連隊が護る前田高地が激戦地となった(前田の戦い)。4月26日に嘉数高地で痛撃を受けていた第96歩兵師団が猛烈な支援砲撃の後に前田高地への攻撃を開始したが、日本軍の防衛陣地は完璧に構築されており[211]、日本軍は丘の前面には陣地を置かず、アメリカ兵が丘を登り切ったところで猛烈な攻撃を加えてきたため、死傷者が続出し丘の麓に撃退された。「為朝岩」(米軍名ニードルロック)にもアメリカ兵が人間梯子をかけて登頂しようとしたが、日本軍の機関銃に狙い撃たれ、登りきることはできなかった。4月29日には日本軍が反撃に出てきて、アメリカ軍は戦車と火炎放射器で数百名の日本兵を殺傷したが、アメリカ軍の損害も大きく、前田高地を攻撃してきた第381連隊は戦闘能力60%を失い、死傷者も1,021名に上っており、中には通常40人の定員に対し、4人しか残っていない小隊もあるほどだった。あまりの損害にホッジ軍団長は第96歩兵師団を慶良間諸島・伊江島を転戦してきた第77歩兵師団と交代させた。兵の多くは消耗しきっていて、彼らを後方に運ぶため、丘の下でトラックが待っているにもかかわらず、そこまで兵器をもっていく気力さえ失っていた。その後第77歩兵師団も大きな損害を被りながら5月6日にようやく前田高地を占領した。前田高地の戦闘でもっとも活躍したのはデズモンド・T・ドス衛生兵で、信教上より武器を持つことはなかったが、常に最前線で負傷兵の救護に当り多くの将兵の命を救ったため、名誉勲章(メダル・オブ・オナー)を授与されている[212]

第27歩兵師団は城間北部の高地の攻略を目指していたが、城間北部の日本軍防衛線の中枢となる堅牢な地下要塞(アメリカ軍はアイテム・ポケットと呼称)の攻略に手間取っていた。アイテム・ポケットはアメリカ軍の激しい砲爆撃にもびくともしていなかったが、第27歩兵師団の第165連隊は多数の死傷者を出しながら、アイテム・ポケットを包囲し四方八方から攻撃してようやく4月26日に攻略した。第27歩兵師団副師団長グリンナー准将は第165連隊のケーリー大佐の進撃速度の遅さと、その杜撰な指揮ぶりに憤慨し、ホッジ軍団長にケーリー大佐の連隊長解任を申し出し許可された[213]。第27歩兵師団も、第96歩兵師団と同じように、この後、沖縄本島中部で日本軍の掃討にあたっていた第1海兵師団と交代している。

これらによりアメリカ軍はようやく首里防衛ラインの外郭を突破し、対する日本側第32軍は第24師団と独立混成第44旅団主力も順次防衛線に配置され、後退した第62師団と合わせて防衛線を再構築した。

アメリカ陸海軍の不協和音

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沖縄戦の陸海軍司令官、左からレイモンド・スプルーアンスチェスター・ニミッツサイモン・B・バックナー・ジュニア
1945年4月16日、特攻機の命中で炎上する正規空母イントレピッドを見守るアメリカ軍駆逐艦

嘉数高地で陸軍が苦戦している間、沖縄沖合でアメリカ海軍艦艇は日本軍の特攻を主力とした激しい攻撃に曝されており、4月中に20隻の艦船が撃沈、157隻が撃破されて、アメリカ海軍将兵の戦死・行方不明者1,853名、戦傷者2,650名に達する大きな損害を被っていた[214]。太平洋艦隊司令長官は、1945年4月12日に戦況報告のため腹心のフォレスト・シャーマン太平洋艦隊司令部戦争計画部長を沖縄に派遣したが、その際にアーネスト・キング海軍作戦部長に「直衛艦艇と哨戒艦艇を1隻ずつ狙い撃ちにする特攻機により、現在受けつつあり、また将来加えられると予想される損害のため、スプルーアンスとターナーは2人とも、(アメリカが)投入可能な駆逐艦および護衛駆逐艦全てを太平洋に移動する必要がある点を指摘している。我が軍の艦艇は特攻機に打ち勝って生き残ることができるような感じはするが、今後数か月入手可能な全直衛艦艇が我々にとって必要となるだろう。」と戦況報告している[215]

ニミッツは、陸軍の進撃速度のあまりの遅さに、バックナーは陸軍の損害を軽減させるために、海軍を犠牲にしてわざと慎重な手法を使っていると疑っており、現場の指揮には口を挟まないという方針を崩して、バックナーの作戦指導に介入する為に4月22日にアレクサンダー・ヴァンデグリフト海兵隊総司令官を連れて、自ら沖縄に出向いている[216]。バックナーは慎重な作戦を好んだが、海軍や海兵隊よりは積極性に欠けるとの評価で不満が燻っており、普段温厚なニミッツも、会談中にあまりにも慎重なバックナーの姿勢に激高し「他の誰かを軍司令官にして戦線を進めてもらう。そうすれば海軍はいまいましいカミカゼから解放される」と詰め寄っている[106]

この際にニミッツとヴァンデグリフトが提案したのは、頑強な日本軍防衛線の背後に、サイパンで待機中の第2海兵師団の残存部隊を上陸させて、防衛線の背後をつくというものであり、レイテ島の戦いのオルモック上陸作戦での成功を再現できると海兵隊も乗り気であった[217]

しかし、バックナーは4月6日に特攻により2隻の弾薬を満載したビクトリー型輸送艦が撃沈されたことにより、火砲の弾薬が不足しており[173]、新たな上陸作戦で第2の戦線をつくりだすと、補給システムが崩壊することを懸念したため、この作戦提案に同意しなかった[218] なおも、第6海兵師団レミュエル・C・シェパード英語版師団長は「第2海兵師団なら外部の補給線がなくとも30日間は持ち堪える」「彼らならやれる。やらしてほしい」と直談判したが、バックナーは、海兵隊が上陸を計画していた港川周辺の海岸は絶壁に阻まれており、日本軍砲兵隊の眼下に上陸することになると考え「そんなことをしたらアンツィオ上陸作戦より酷い事になる」と説き、海兵隊の申し出を却下した[219]

バックナーは1943年に司令官として、アッツ島の戦いといったアリューシャン列島奪回作戦を圧倒的物量の投入による正攻法で成功させた為、沖縄戦についても正攻法を貫き通す意向であった。[注釈 17] しかし、戦後にアメリカ軍から尋問された八原が「5月までには南部海岸の防衛の望みはなくなっており、米軍がなぜ上陸作戦を行わないのか、第32軍幕僚の中でも話題になっていた」と当時の日本軍の状況を語っており、このバックナーの選択はアメリカ陸軍戦史家から、戦況を一気に変える可能性がある日本軍防衛線背後への強襲上陸の提案を拒否したのは歴史上の転機になったと評された[221]

スプルーアンスは、配下の艦隊のあまりの特攻被害に「特攻機の技量と効果および艦艇の喪失と被害の割合がきわめて高いので、今後の攻撃を阻止するため、利用可能なあらゆる手段を採用すべきである。第20空軍アメリカ陸軍航空軍)を含む、投入可能な全航空機をもって、九州および沖縄の飛行場にたいして、実施可能なあらゆる攻撃を加えるよう意見具申する」 という戦況報告と、陸軍航空軍戦略爆撃機部隊のB-29などによる航空支援の要請を行っている[222]カーチス・ルメイ少将は、B-29は日本の都市を焼夷弾絨毯爆撃することが戦争遂行に最も寄与することと考えており、B-29を戦術爆撃任務に回すことに難色を示したが、スプルーアンスの懇願を受けたニミッツの強い要請により[223]、B-29の戦力の75%、延べ2,000機が、日本の都市や工業地帯への絨毯爆撃から、 九州の航空基地の攻撃に振り向けられ、一時的ではあったが、本土の大都市や工業地帯の爆撃による被害が軽減されている[224][225]

しかし、B-29は分散していた特攻機に損害を与えることができず、九州や台湾の航空基地にすぐに埋め戻される穴を開けたに過ぎなかった。陸軍航空軍の働きに失望したスプルーアンスは「彼ら(陸軍航空軍)は砂糖工場や鉄道の駅や機材をおおいに壊してくれた」と皮肉を言い、5月中旬にはルメイへの支援要請を取り下げて、B-29は都市や産業への戦略爆撃任務に復帰している[226]

スプルーアンスは、陸軍航空軍がほとんど成果を挙げなかったと考えており、下記のように自分らを苦しめている特攻と対比し非難している。

特攻機は非常に効果的な武器で、我々としてはこれを決して軽視することはできない。私は、この作戦地域にいたことのない者には、それが艦隊に対してどのような力を持っているか理解することはできないと信じる。それは、安全な高度から効果のない爆撃を繰り返している陸軍の重爆撃機隊のやり方とはまったく対照的である。 私は長期的に見て、陸軍のゆっくりとした組織的な攻撃法をとるやり方の方が、実際に人命の犠牲を少なくなることになるかどうか、疑問に思っている。それは、同じ数の損害を長期間にわたって出すに過ぎないのである。日本の航空部隊がわが艦隊に対して絶えず攻撃を加えてくるものとすれば、長期になればなるほど海軍の損害は非常に増大する。しかし、私は陸軍が海軍の艦艇や人員の損耗について考慮しているとは思えない。— レイモンド・スプルーアンス[222]

一方で、スプルーアンスに非難されたルメイも「B-29は戦術爆撃機ではなく、そんなふりをしたこともない。我々がどんなに飛行場を叩いても、カミカゼの脅威をゼロにすることはできなかった。」と自らの飛行場爆撃の効果を疑問視していた[227]

以上の通り、沖縄戦では海軍が特攻を主体とする日本軍の航空攻撃により大きな損害を被る一方で、陸軍が日本軍の激しい抵抗により容易に進撃できず、海軍に余裕がなくなり陸軍への不信感を増大させていた。

沖縄本島南部の戦い中期・日本軍総攻撃の失敗・首里防衛線崩壊まで

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鈴木内閣総理大臣のラジオ放送

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4月26日19時45分。鈴木貫太郎内閣総理大臣は次のようにラジオ放送した。

「沖縄全戦域に一致団結して全員特攻敢闘せらるる将兵各位並びに官民諸君、私たち一億国民は諸士の勇戦敢闘に対し、無限の感謝をささげている。中略。我が肉弾による特攻兵器の威力に対しては敵は恐怖をきたしつつたる。今後日本独特の作戦に対して、敵の辟易することは火を見るよりも明らかである。私は諸君らがこの神機をつかみ勝利への鍵を確かと握られることを期待してやまぬ。」

鈴木首相の放送は、特攻勇士と第32軍将兵を讃え、本土決戦に備える国民を奮え立たせる内容であった。

日本軍総攻撃

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撃破されたLVTの横を進む第6海兵師団兵士

第32軍は夜襲失敗以降は、八原高級参謀の持久戦術により、アメリカ軍に多大な損害を与えて進撃を遅滞させてきたが、損害は増大し主陣地も逐次圧迫され、第32軍首脳部は今後の戦況の推移に憂慮していた。4月29日に長勇参謀長は八原ら参謀を集め「今後の戦況の見通しと軍の攻勢」について幕僚会議を開いた。その席で長は「現状をもって推移すれば、軍の戦力は蝋燭のごとく消磨し、軍の運命が尽きることは明白、攻撃戦力を保有している時期に攻勢を採り、運命の打開をすべき」と反転攻勢を主張した[228]

八原は「攻勢をとれば全滅の運命は必至という状況を冷静に受け入れ、今までの戦略持久を堅持すべきである」「防御陣地を捨てて攻勢に転じても圧倒的火力優勢なアメリカ軍を撃退することは不可能であり、失敗すれば戦略持久すら不可能となり、本土攻撃までの持久日数が短小となる」「絶対優勢な米軍に攻勢をとれば、損害の比は日本軍がアメリカ軍の5倍となる」などを強く主張し反対したが[229]、他の参謀らは長を熱烈に支持した。日本軍の長年の伝統は攻勢至上主義であり、それを常々疑問に思っていた八原は、その伝統に捉われ攻勢に転じようとする司令部内の空気を「司令部内に、再び狂風吹き始めたり。警戒を要す」とメモに書き記している[230]。 決定を不服とした八原は「米軍は、日本軍のことを、兵は優秀、下級幹部は良好、中級将校は凡庸、高級指揮官は愚劣と評しているが、上は大本営より下は第一線軍の重要な地位を占める人々まで、多くの幕僚や指揮官が、用兵作戦の本質的知識と能力に欠けているのではないかと疑う」と記録している。

司令官の牛島も、かねてからの中央からの督戦を気に病んでおり、長らの攻勢の意見を取り上げ同日に総攻撃を決定した。5月1日には最後まで反対していた八原を呼び「既に軍は全運命を賭けて攻勢に決したのだから、よろしく気分一新し、全軍の気勢を殺がぬよう注意せよ」と温厚な牛島にしては異例の叱責を行っている[231]。八原はこの牛島の叱責は長の策動によるものと察し「これは、無意味な自殺的攻撃に過ぎぬものと思います。しかし、既に閣下がご決心になったことでありますので、私としては、その職責に鑑み、全力を尽くしております」と答えたが、牛島は八原の暴言に怒ることもなく「もちろん玉砕攻撃である。吾輩も、最後には軍刀を振って突撃する考えである」と言葉静かに諭した[232]

作戦会議決定により5月3日夜に、日本軍は反転攻勢に転じた。第32軍は、温存していた砲兵隊により5,000発のかつてない規模でアメリカ軍に砲撃を浴びせ、砲撃の支援下で第24師団と戦車第27連隊などを繰り出して普天間付近までの戦線回復を図った。船舶工兵第23、26連隊が残存の上陸用舟艇大発動艇に乗船し海上を迂回してアメリカ軍背後に逆上陸を試みることとした。逆上陸作戦には、1945年4月27日に駆逐艦「ハッチンス英語版」を大破放棄の戦果を挙げてからは、組織的な戦闘力を喪失していた海上挺進第26-29戦隊が、特攻艇のマルレの残存艇を使用して参加[168] の他に、沖縄の漁民が操縦するサバニ多数も投入することとした[233]。第5航空艦隊司令宇垣纏は総攻撃援護のため、九州および台湾の陸海軍全航空戦力を投入することを決定、同日「菊水五号作戦」と「第六次航空総攻撃」を発令し、大量の特攻機を出撃させた[234]

総攻撃で撃破された日本軍の九五式軽戦車

日本軍の猛烈な砲撃にアメリカ軍は一時混乱に陥ったが、あらゆる火砲や火器を集中して総攻撃してきた日本軍を攻撃し、日本兵は得意の白兵戦に持ち込む事もできずバタバタと斃された[235]。アメリカ軍の重砲隊は日本軍の退路にも激しく砲撃し、日本軍は退路を断たれて損害が増大した[236]。また、日本の戦車第27連隊は九七式中戦車(新砲塔型を含む)と九五式軽戦車のほとんどが撃破され、残存戦車6両となり連隊はほぼ壊滅した[237]

船舶工兵第23、26連隊、海上挺進第26-29戦隊などの逆上陸部隊は、東西2手に分れ逆上陸を目指すこととなったが、主力の西海岸上陸部隊(700名)が那覇桟橋を出港し、牧港嘉手納に向け海上を進行中に、陸上のアメリカ軍の第1海兵師団の第1海兵連隊に発見された。第1海兵連隊は海上に向けて迫撃砲での砲撃を含め激しく攻撃してきたうえに、水陸両用戦車LVT(A)-1が海上まで進んできて、車載37㎜砲で兵士ごと船舶を撃沈していった。生き延びた日本兵はやむなく海岸から上陸したが、そこでも第1海兵連隊の激しい追撃により、合計443名の戦死者を出し壊滅した[238]。それでも、第1海兵師団は背後に日本軍が上陸すると孤立してしまうため、師団は混乱し、日本軍の空挺部隊が降下してくるという偽情報に振り回され、屈強な海兵隊兵士らも、夜間に上空に飛来する航空機の音に怯えながら、一睡もすることなく朝を迎えることとなった[239]。東海岸上陸部隊(200名)は70隻のサバニに分乗した上陸兵を20隻のマルレが援護する編成であったが、与那原を出発して中城湾を航行中に、パトロール中の駆潜艇に発見され、攻撃を受けて次々と撃沈された。その後に第7師団所属の水陸両用戦車LVT(A)-1も攻撃に加わり、サバニ部隊は壊滅した。生き残ったマルレは、中城湾に停泊していた輸送艦「カリーナ英語版」に突入し大破させた。これが日本軍の特攻艇による最後の戦果となったが、西海岸上陸部隊も106名の兵士と多数の沖縄漁民の戦死者を出して壊滅し、東西海岸への逆上陸作戦は失敗に終わった[240]

逆上陸作戦に使用された、沖縄の漁船サバニ

翌5月4日も日本軍の攻撃は続き、日本軍の砲撃は、アメリカ軍が太平洋戦線で受けたことがない規模となる13,000発にもなったが、アメリカ軍は日本軍の発砲地点を観測機により発見して効果的に反撃し、対砲兵戦により59門を破壊したと記録しており、大きな損害を被った日本軍の砲兵隊は、この後はまた隠匿した陣地に引き籠りざるを得なくなり、支援砲撃は大幅に弱体化した[241]。昨夜に引き続き日本軍はアメリカ軍の圧倒的な火力の前に膨大な死傷者を出しながらも、一部の部隊はアメリカ軍の前線の突破に成功している。中でも前田高地で活躍していた第24師団歩兵第32連隊の第1大隊が棚原高地を奪還した[242]。このため、アメリカ軍第7歩兵師団第17連隊は補給路を断たれることとなり、日本軍総攻撃での数少ない成果となった[243]。これまでに日本軍の戦死者は6,237名にも及び、ほとんど無傷の予備兵力であった第24師団も大打撃をうけ、隷下の歩兵第32連隊などは戦力が30%以下となるなど大損害を被った[244]。一方でアメリカ軍の損害は、陸軍師団で714人、第1海兵師団で352人の合計1,067人の死傷者であったが[245]、これは攻勢反対意見を述べた際の八原の予想通りの損害比率であった[229]

5月4日夜には攻撃の失敗は明らかで、長をはじめ、攻勢を主張していた軍首脳部はうなだれて一言も発することができない状況だった。翌5日に、全軍玉砕覚悟し総攻撃を敢行するか否か牛島の決断がせまられたが、八原はこの時の司令部の状況を「地上戦闘に対する認識が浅い。中国軍相手や太平洋戦争初期の戦闘経験に捉われ、比較を絶する強大な火力部隊に対する心構えが乏しく不十分だ。死を賛美しすぎ、死が一切を美しく解決すると思いこんでいる」と厳しく評価している[246]。5日に牛島は長を介さず、直に八原を呼ぶと、目に涙を浮かべながら謝罪し、今後は八原の助言を重んじると告げている[247]。牛島はその際に「今後は一切を貴官に任せる。思う存分やってくれ」と軍の指揮を八原の方針に一任するとし、これまで対立してきた長もこの日以降は「八原、俺の切腹の時期はまだ来ないか?」と冗談とも本気ともつかぬ口癖で、八原の方針に従うようになった。八原は牛島の一任を受けると直ちに総攻撃中止の軍命令を発し、棚原高地を確保していた第32連隊第1大隊も撤退した[248]

総攻撃の失敗により、沖縄戦は二週間以上短縮されたと分析されているが、この結果からアメリカ陸軍は、この総攻撃の提案者の長に対し「5月4日から5日にかけての日本軍の反撃は、長より八原の戦術の方が優れている事を示した。長が自信過剰になって思い付き、不適切に実行した攻撃は、途方もない大失態だった」と厳しい評価をしている[249]

ナチス・ドイツの降伏のラジオニュースを聞く第77歩兵師団兵士

一方で総攻撃への空からの援護であった特攻は、相応の戦果を挙げており、駆逐艦「モリソン」「ルース」、中型揚陸艦LSM(R)-190およびLSM(R)-194が撃沈され、護衛空母「サンガモン」軽巡洋艦「バーミングハム」が大破するなど17隻が撃沈破され682名の死傷者を出した[250]。この内「バーミングハム」への特攻の瞬間は、地上で戦っていた第1海兵師団からも目撃できたという[251]

第32軍の総攻撃失敗から数日後の5月8日にナチスドイツが無条件降伏したが、沖縄のアメリカ兵たちは誰も大して関心を払わなかった。ナチスドイツが降伏しようが、総攻撃失敗で大損害を被ろうが日本軍は今までの様に沖縄でも全滅するまで戦うだろうと確信しており、元海兵隊員で戦後に生物学者となったユージーン・スレッジは当時「ナチスドイツなど月より遠い話だ」と考えたと回想している[252]。海兵隊員らの予想通り、この後日本軍は八原の作戦指揮の下、無謀な攻撃はせず、徹底した持久戦術をとったため、アメリカ軍の損害が増大していった。

首里防衛線の崩壊

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シュガーローフ・ヒル(安里52高地)

バックナー司令官は、日本軍が予備隊を使い果たした状況であるのを踏まえ、5月中が首里へ向けて総攻撃を行う好機と判断した[253]。第6海兵師団を中心とする第3水陸両用軍団は、島北部の掃討任務を第27歩兵師団と交代して5月11日までに南へ転進した。これによりアメリカ軍は、西から順に第6海兵師団・第1海兵師団の第3水陸両用軍団、第77歩兵師団・第96歩兵師団の第24軍団を並べ、第7歩兵師団を予備隊に控えた態勢で総攻撃を開始した[254]

バックナーは日本軍は精鋭部隊のほとんどを総攻撃失敗で失ってしまった、という前提の上で「今度の攻勢では、特に変わった戦闘はない。新鋭師団も十分だから、1個師団は常に休養が取れる」と考え、幕僚らも「新鋭の海兵師団をもってすれば、迅速に日本軍陣地を突破できる」と楽観的な見通しを持っていた[255]

しかし、日本軍は牛島が、総攻撃の失敗の教訓として「首里を包含し、両翼を東西海岸に委託する現陣地に拠り、アメリカ軍の出血を強要しつつ、あくまでも持久し」[256] と徹底した持久作戦を指示、八原高級参謀も「我々はひたすら陣地内に潜み、可能な限り沢山の米兵を殺すべし」[247] と徹底しており、バックナーらの見通し通りとはならず、戦いはこれまでを遙かに上回る激戦となった。

バックナーの作戦は、首里防衛線の右翼を第3水陸両用軍団の第1海兵師団と第6海兵師団、左翼を第24軍団の第96歩兵師団と第77歩兵師団が突破し、中央の首里城にある第32軍の司令部を包囲しようというものであった[257]。5月11日に第6海兵師団は日本軍の激しい抵抗を受けながらも安謝川を渡河し、首里西方の安里付近に進出したが、そこの三つの高地(シュガーローフ、ハーフムーン、ホースショア)の日本軍陣地に進撃を止められた。この三つの丘はシュガーローフを頂点、他の二つが底辺とする三角形を構成し侵攻軍に矛先を向け、三つの丘は相互に相補って強固な防衛線を構築していた[91]。シュガーローフは一帯は海兵隊史上最大の激戦となり、反斜面陣地を軸とした強固な陣地を守る日本軍の独立混成第44旅団配下の部隊、独立混成第15連隊と第6海兵師団が激しい攻防戦を繰り広げた(シュガーローフの戦い)。

シュガーローフで撃破された一式機動四十七粍砲。その先には一式機動四十七粍砲に撃破されたM4中戦車やLVTも見える。

シュガーローフで一番の激戦となったのは5月16日であり、第6海兵師団は、2個連隊をつぎ込んでシュガーローフに対する最大規模の攻撃を仕掛けた[258]。第29海兵連隊がハーフムーンを攻略して、シュガーローフへの側面からの砲撃を遮断し、その後に第22海兵連隊がシュガーローフを攻略するという作戦であった[259]。シュガーローフを防衛していた独立混成第44旅団は8門の105mm野砲と4門の75mm山砲を装備し、他にも多数の速射砲(対戦車砲)や迫撃砲や擲弾筒などの火砲も併せて、進撃してくるアメリカ軍に激しい砲撃を加えている。激しい砲撃や射撃の中で、海兵隊はシュガーローフやハーフムーンに中々近づく事ができず、支援の戦車も次々に撃破された。シュガーローフの戦いでは主に対戦車地雷と一式機動四十七粍砲によって多数のM4中戦車が撃破された。M4中戦車は太平洋戦域では日本軍の対戦車装備の貧弱さもあり、理想的な働きをしてきたが、沖縄の日本軍は速射砲を巧みに擬装し、戦車を一旦やりすごした後に装甲の薄い後方から攻撃する戦法とり、M4中戦車の側面・後面装甲の薄さや、日本軍陣地に対する主砲の威力不足などの弱点が露呈した。海兵隊のM4中戦車はその弱点を補うため、ほぼ全部の車両に、鋼板やワイヤーロープを溶接したり、土嚢を貼りつけたり[260]、縦列で進行するときは、最後尾の戦車は砲塔を後ろ向きにして警戒するなどの対策を講じていた[261]

シュガーローフでアメリカ軍に大きな損害を与えた九一式十糎榴弾砲(写真は富士演習場での射撃訓練のもの)

日本軍からの激しい攻撃の中で、海兵隊1個中隊がシュガーローフの山頂に達したが、反斜面陣地で激しい砲爆撃をやり過ごした日本軍が迫撃砲を浴びせ手榴弾を投擲してきた[258]。他の部隊はほとんど前進できていなかったために海兵中隊は孤立状態となり、周囲の日本軍から激しい射撃や砲撃を浴び、山頂をそのまま確保することが困難となり退却を余儀なくされた。多数の負傷兵が出たため、戦車とLVTで搬出しようとしたが、戦車とLVTも次々と撃破されていった。この日は深夜まで日本軍の砲撃は止まず、第22海兵連隊は戦力が40%まで落ち込み、第6海兵師団の戦史では、この日を「師団史上もっとも打ちのめされた日」と表現している[262]。しかし日本軍の損害も多大で、この日は海軍の山口大隊が、大隊長以下ほとんどが戦死し生存者がわずか22名という状況になった[263]

突撃する第1海兵師団兵士

この後もシュガーローフを強攻し続けた海兵隊の損害も甚大であったが、日本軍の損害も大きく、日に日に日本軍の抵抗は弱まっていき、ついに5月19日の11回目の攻撃で陥落した。しかしアメリカ軍の払った代償は大きく、死傷者は2,622名にも及び、他1,289名の神経症患者も出すこととなった[264]。特に将校の死傷率が高く3名の大隊長が戦死、11名の中隊長が死傷するなど死傷率は70%にも及んだ[265]。海兵隊将校に多大な出血を強いたのは日本軍の狙撃兵であり、階級を示す微章や拳銃のホルスターなどの装備品で将校と認識すると、優先して眉間や胸の真ん中といった致死率の高い箇所を正確に狙撃してきた。特に中尉の死傷率が高く、次から次に交代となるので、兵士からは『トイレットペーパー』と揶揄されていたが、その内に狙撃されないように将校は微章や装備品を身につけないようになった。中には着任してわずか15分で戦死した将校もいて、兵士が名前を覚える暇もなかったという[190]。シュガーローフで大損害を被った第6海兵師団第29海兵連隊の沖縄戦における死傷者累計は2,821人と連隊定員数を上回る甚大なものとなったが、これは第二次世界大戦中におけるアメリカ軍歩兵連隊の戦闘消耗人数では最悪なものとなっている[266]。圧倒的なアメリカ軍を相手に、シュガーローフで10日間も足止めした日本軍の戦術は、戦後に第6海兵師団の教本で「教科書通りの陣地防御戦術」と称賛された[247]

日本軍の潜む洞窟を火炎放射器で攻撃するアメリカ兵

第6海兵師団の隣を進撃していた第1海兵師団も進撃の行く手には、安羽茶地区・沢岻高地・沢岻村・大名高地・大名村があったが、これらは全て堅く陣地化され、互いに支援しあえる様に緻密に設計された縦深防御の精巧な防衛システムが構築されていた[267]。第1海兵師団は5月6日に安羽茶地区のナン高地(日本軍呼称:50米閉鎖曲線高地)に達したが、日本軍は陣地に立て籠もり抵抗、一式機動四十七粍砲により3両の戦車が撃破されるなどで2回撃退されたが、9日にはアメリカ軍は得意の「ブロートーチ(溶接バーナー)と栓抜き作戦」で陣地ごと爆破し、ナン高地を制圧した[268]

第1海兵師団は14日に大名高地に達したが、大名高地とそれに隣接する高地は首里直前に位置し、首里防衛線の中核を成しており、その堅牢さはそれまでとは比較にならなかった[269] 17日から大名高地に対して攻撃を開始したアメリカ軍は、艦砲や爆撃から野砲・迫撃砲・戦車による火炎放射に至るまであらゆる火器を集中し大名高地の日本軍陣地を攻撃したが、日本軍からの応射も凄まじかった。第1海兵師団はペリリューの戦いの激戦も潜り抜けてきたが、大名の戦いはペリリューとは別次元の激しさだったと海兵隊員らは感じたという[270]

20日は第1海兵師団は2個大隊により二手から大名高地を攻撃、その内の第3大隊は一つ一つ陣地を「ブロートーチ(溶接バーナー)と栓抜き作戦」で撃破しながら進撃、ナパームで高地を焼き払い、日本兵を炙り出して掃討しつつ一日でようやく60m進んだが、その後丘陵部を25m前進すると、日本軍の猛烈な反撃でまた元の陣地に押し返された[271]

日本軍の速射砲や爆雷に対抗するため、現地で車体側面や走行装置に増加装甲板を溶接される海兵隊のM4中戦車。砲塔の側面にも無限軌道の履板が巻かれている。

その後5月21日から、沖縄には10日間に渡って雨が降った。地面はぬかるみ、アメリカ軍の車両の運用が困難となったために、大名高地を含みアメリカ軍の攻撃は一時停滞した[272]

縦深防御システムは陸軍各師団の進撃路にも構築されており、陸軍も海兵隊と同様にもがき苦しんだ。第77歩兵師団は首里へ続く曲がりくねった道を前進したが、数メートルおきに日本軍の陣地があり、同師団の第305歩兵連隊は損害に構わず押し進んだ結果、5月11日〜15日の間に戦力が1/4まで落ち込んでしまった[273]

アメリカ軍は通常、午前中に進撃して、午後から陣地を構築して、夜間は陣地に籠り日本軍の夜襲を警戒するというスケジュールであったが、第77歩兵師団は少しでも前進速度を上げる為に夜間攻撃を強行し、日本軍と激しい白兵戦を演じている[273]。第307歩兵連隊は日本軍の重要拠点石嶺丘陵の陣地に夜襲をかけ、頂上から日本軍の洞窟陣地を攻撃し、就寝していた日本兵多数を殺傷したが、その後日本軍の激しい反撃を浴び、3日間山頂に孤立し、救出された時には夜間攻撃に参加した204名の内156名が死傷していた[274]

石嶺丘陵の内でもっとも頑強な陣地は「チョコレート・ドロップ」山[注釈 18](日本軍呼称:西部130高地)であったが、チョコレート・ドロップを攻撃してきたアメリカ軍第77歩兵師団の第306歩兵連隊は、激しい砲火で歩兵の死傷も増大し、死傷者は471名にも上ったことから、第307歩兵連隊と交代させられることになった[275]。この攻防戦では戦車第27連隊が奮戦しており、同連隊は総攻撃でほとんどの戦車を失ってはいたが、残った6輌の戦車はすべて車体を埋めてトーチカとして使用した。戦車第27連隊は機動部隊的反撃戦闘を想定した特殊な編成で、戦車連隊ながら重機関銃や速射砲を装備した歩兵中隊や九〇式野砲を装備した砲兵中隊も配備されていたため[276]、進攻してきたM4戦車を速射砲や野砲で次々と撃破、擱座させ、その数は10-20輌にも上った。攻撃してきたアメリカ軍は多数の死傷者を出して撃退されて、戦車第27連隊はアメリカ軍の残していったバズーカや重機関銃など多数の兵器を鹵獲した。戦車第27連隊は沖縄戦開始よりこの攻防戦までに敵戦車30輌を撃破、敵兵員2,200人を死傷させたと記録しているが、5月26日までにすべての戦車を失い、27日未明には連隊長村上乙中佐も戦死して、他の日本軍部隊と撤退した[277]

最初に首里戦線の突破口を開いたのは一番端を進んでいた第96歩兵師団であった。第24軍団長ジョン・リード・ホッジ少将は、首里により近い高地を攻撃し、一気に首里に近づく作戦を主張していたが、第96歩兵師団長ブラッドリー少将は地形を偵察の上で、より高いコニカルヒル(運玉森)の攻略を優先させた方がよいという意見であった[278]

強力な艦砲射撃の後、5月10日に第96歩兵師団の第383歩兵連隊がコニカルヒル[注釈 19]に対して攻撃を開始したが、第24師団の金山大佐率いる歩兵第89連隊が主力として布陣した日本軍の陣地は、他の戦場と同様に砲爆撃では破壊できなかった。第383歩兵連隊が前進すると日本軍から激しい砲撃を浴び、容易に前進できなかった。しかし大きな損害を被りながらも、同連隊は13日までにはコニカルヒルの頂上を望める点まで進撃してきた。その報告を受けたホッジは「これが成功したら首里の鍵を握ることができる」と喜び、バックナーも自ら連隊長の元を訪れ激励している[279]

この頃に台湾の第10方面軍から、傍受したアメリカのラジオ・ニュースの内容が知らされたが「天久台での海兵隊の損害は甚大で、250名の中隊が炊事兵まで繰り出して戦い、ついには8名になった」というもので、第32軍は予想以上にアメリカ軍を苦戦させていることが判り狂喜したが、八原高級参謀は「あのバカげた総攻撃さえなければ、今こそ米軍に甚大な損害を与え撃退できたのに」と悔やんだ[280]

日本軍の陣地攻略に絶大な威力を発揮したM4中戦車火炎放射型。損害も大きく沖縄戦で一個大隊分の車輌が撃破された。

以上の通り、首里防衛線全線でアメリカ軍は日本軍の防衛線を突破したが損害は甚大であった。首里戦線の2か月弱の戦闘で、第24軍団と第3水陸両用軍団の死傷者は合計で26,044名であったが、他に戦闘ストレス反応による傷病兵も海兵隊6,315名、陸軍7,762名の膨大な数に及んだ[281]。アメリカ軍が沖縄で失った戦車は陸軍239輌、海兵隊136輌の合計375輌にも上ったが[282]、これは沖縄戦に投入されたアメリカ軍戦車の57%にも上り、またその内には貴重で補充ができなかった火炎放射戦車も12両含まれていた[283]

沖縄本島南部の戦い後期 首里陥落 第32軍撤退まで

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昭和天皇より賜った御嘉賞

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5月18日、沖縄を守備する第32軍の戦況が昭和天皇に上奏され、翌日、御嘉賞のお言葉が第32軍宛に電報発信された。

「第三十二軍カ来攻スル優勢ナル敵ヲ邀へ軍司令官ヲ核心トシ挙軍力戦連日克ク陣地ヲ確保シ、敵ニ多大ノ出血ヲ強要シアルハ洵ニ満足ニ思フ。」

昭和天皇からのお言葉は、長参謀長から各部隊に披露され士気を鼓舞した。

首里撤退

焦土と化した那覇市街上空を飛行するOY-1観測連絡機(1945年5月)
首里城の廃墟に星条旗を掲げる第1海兵師団将校

第32軍は運玉森方面(アメリカ軍呼称 コニカルヒル)にアメリカ軍が攻勢を強めていることを重く見て、運玉森が攻略されれば、一気に首里防衛線は崩壊すると憂慮していた。その為、5月21日に八原は軍参謀を召集し、今後の方針として下記の各案の利害得失を協議した[284]

  • 首里陣地に籠り最後の決戦を行う案。軍の構想は平素からこの案が元であり、各陣地もこの案で整備している。しかし生存の将兵は未だ50,000名はいると推定され、この兵を圧迫された首里陣地内に配置すればアメリカ軍の砲爆撃の好餌となってしまう。
  • 知念半島撤退案。知念半島は四方を海に囲まれ対戦車戦闘に有利である。しかし洞窟の数が少なく残存兵力を収容するのが困難であり、既集積物資も少なかった。
  • 喜屋武半島撤退案。海正面は30〜40mの断崖で防御地域として良好であり、自然・人工の洞窟が豊富で残存兵力の収容も可能で、第24師団の軍需品が集積されている。

八原の作戦案に対し、各兵団長が意見述べ、第62師団長藤岡武雄中将などは首里決戦案を主張したが、協議の結果、地形堅固な喜屋武半島への撤退による持久作戦継続案を採ることとなり、軍主力の後退は29日、その前に軍需品や負傷者の後送をただちに行うことと決した[285]

喜屋武半島での持久案をもっとも強く主張したのは八原で、作戦協議も八原主導で進められたが、この案は戦火を逃れて南部島尻地区に避難している住民の安全をほとんど顧みない作戦であった。しかし、あがってきた作戦案に対し、参謀長の長は総攻撃失敗以降は八原の作戦に異論を挟む事はなかったし、牛島も今までと同様に八原らの作戦案を5月22日に黙って決裁した[286]

アメリカ軍の進撃は、5月末から降り出した豪雨で一時停滞していたが、23日には、第96師団が制圧したコニカルヒルから、第7師団の第184・第32歩兵連隊が首里を包囲するため前進した。遭遇した日本軍は敗残部隊が多く、両連隊に幾度となく攻撃をしかけたが、撃退され両連隊の進撃を阻止できなかった[287]。しかし第32歩兵連隊が、首里と沖縄南部を結ぶ幹線道路と接する重要な高台地に達すると、日本軍は残存砲兵戦力の総力を挙げての激しい砲撃と、第24師団歩兵第89連隊の敢闘により、多数の損害を出させて撃退している[287]。24日には第6海兵師団の偵察部隊が那覇に進出している。既に砲爆撃により廃墟となっていた那覇には日本軍の姿はなく、同日にアメリカ軍の手に落ちた。

コニカルヒルを完全制圧した第96歩兵師団や、シュガローフやハーフムーンを突破した海兵隊が首里に近づき、首里包囲網が完成されつつあった26日に、海軍の偵察機が日本軍の大規模な移動を発見した。その報告を聞いたバックナー司令官は、日本軍の意図を察して徹底した追撃を厳命し、移動している日本軍45,000名に艦砲・空爆・砲撃で徹底攻撃を加えたが、全く撤退を予測しておらず効果的な追撃ができなかったこと、5月末から降り出した雨が激しくなった事などの要因で、完全に第32軍の撤退を阻止することはできず、第32軍の30,000名が南部で新たな陣地にまた防衛線を構築することができた。首里を包囲しつつあった第24軍団と第3水陸両用軍団の脇をすり抜けての撤退であり、損害は大きかったが奇跡的な陣地移動であった[221]

牛島司令官ら第32軍首脳は、5月27日、豪雨と夜陰に紛れて徒歩で首里を撤退し南風原町津嘉山の壕へ向かった。さらに30日未明には新しい司令部となる摩文仁に移動した[288]

わずかばかりの守備隊が残った首里陣地はアメリカ軍の手に落ちたが、難攻不落の要塞だった首里陣地も、アメリカ軍の艦砲射撃などでいたる所が破壊されており、日本兵の遺体が散乱していた。その光景を見たバックナーは「牛島は首里戦線撤退にあたって船に乗り遅れた」「もう戦いは終わった、後は掃討戦だ(中略)敵は二度と戦線を確立することはできない」とか、またもや楽観的な意見を述べ、参謀らも日本軍に秩序だった撤退はできないと思っていたが、これは全く根拠がない事が、日本軍が損害を被りながら見事に首里を撤退し、南部に新たな戦線を構築したことで明らかになった[289]。アメリカ軍は日本軍の組織的な抵抗を完全に制圧するためにあと3週間もの期間を要することとなった[290]

小禄攻防戦で日本軍に撃破されたM4中戦車を視察する第6海兵師団レミュエル・C・シェパード師団長
沖縄根拠地隊司令官大田実少将が自決した海軍司令部壕

南部への撤退に際しては、日本側で混乱も起きている。大田実少将率いる海軍沖縄根拠地隊は、5月26日に小禄の陣地を離脱して真榮平に移動したが、これは「第32軍主力の移動の援護をした後に6月2日以降撤退せよ」という第32軍命令を、命令書の表現が曖昧であった為誤解したものであった。誤解の判明で大田は28日夜に小禄の旧陣地に復帰したが[291]、6月4日には進撃速度を上げたアメリカ軍が海軍部隊の守る小禄海軍飛行場陣地まで進撃してきた。 海軍部隊である沖縄方面根拠地隊は、主に飛行場設営隊などを陸戦隊に再編成したもので本来の戦闘部隊は少なく、余剰となった航空機関砲を陸戦用に改造するなどの努力はしたものの装備は劣悪であった。比較的戦力のある4個大隊を陸軍の指揮下に入れて首里戦線に送った後、本隊は陸軍守備軍と別行動をとり、小禄地区に篭って抗戦していた。接近したアメリカ軍駆逐艦「ロングショー」と掃海艦とタンカーを海岸砲で砲撃して沈めるなどの戦果を挙げていたが[292]、5月26日の誤解による撤退の際に残存の重火器を破却しており、兵力もわずか2,000人と戦力は低かった。それでも大田は死守を決意し、6月5日には第32軍司令部に対し「海軍は包囲せられ撤退不能のため、小禄地区にて最後まで戦う」と打電している[291]。牛島は大田に南部への後退命令を再度発し、自ら懇切な親書を認めたが大田の決意は固く翻意は無理であった[293]。大田は6月6日に各所に訣別の打電をしており、中でも海軍次官宛の『…沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ』という打電は今日でも有名である。

小禄に侵攻した第6海兵師団は日本海軍部隊の激しい抵抗を受けて大きな損害を被ったが、6月11日には2個連隊により海軍部隊の陣地を包囲した。小祿の防衛戦は10日間も続き、アメリカ軍の死傷者は1,608名にも上った。大田率いる海軍陸戦隊の武器は対空陣地や破壊された航空機から外された機銃で、それも兵士3名につき1挺という貧弱なものであったが、アメリカ軍の死傷率は首里攻防戦を大きく上回るもので、まともな装備であったら、さらにアメリカ軍に甚大な損害を与えていたものと評価されている[294][注釈 20]。大田は6月11日に牛島司令官宛てに「敵戦車群は我が司令部洞窟を攻撃中なり、根拠地隊は今11日2330玉砕す、従前の厚誼を謝し貴軍の健闘を祈る」と打電した後に、海軍司令部壕内で13日に部下参謀5名と共に自決した[296]。小禄を制圧した第6海兵師団は大田の司令部の特別捜索を行い、数百の自決した日本兵の遺体が横たわる地下壕内の中央の部屋で大田と5名の上級将校の遺体を発見して、この司令部の地下壕があった丘を『提督の丘』と名付けている[297]。また、小祿では6月12日と13日に沖縄戦で初めて159名の日本兵がまとまった集団として投降し捕虜となっている[298]

沖縄戦での特別攻撃隊

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沖縄戦には陸海軍計1,900機の特攻機が投入された。写真は陸軍特別攻撃隊第72振武隊の操縦者達(中央・荒木幸雄伍長)。撮影の翌日、5月27日に隊長・佐藤睦夫中尉以下九九式襲撃機10機の第72振武隊は万世飛行場を出撃、その内2機が金武湾上においてアメリカ海軍フレッチャー級駆逐艦「ブレイン」に突入し大破の戦果をあげた。
義烈空挺隊が使用しアメリカ軍占領下の北飛行場(読谷飛行場)に強行着陸した九七式重爆撃機改造輸送機。
特攻で大破した空母バンカーヒル
空母バンカーヒル艦内で火災に巻き込まれて死亡した多数のアメリカ軍戦闘機パイロット

アメリカ海軍は4月23日に太平洋艦隊司令長官ニミッツ大将が第10軍司令官バックナー中将に特攻対策の為の進撃督戦した以降も、日本軍の特攻に苦しめられており、この頃にニミッツはワシントンの海軍上層部に「もう持ち堪えられない」という弱気な報告を打電している[299]

前線での苦戦の報告を受けた海軍省長官ジェームズ・フォレスタルは5月17日の記者会見で、海軍の死傷者が4,702名に達していることを明かし「海軍による上陸作戦への継続的な支援は困難な業務であり、高価な代償を伴うものであることをアメリカ国民の皆様に理解して頂きたい」と訴えたが、この会見にはバックナーへの非難の意味もこめられていたと言われている[300]

この後、バックナーは首里防衛線を攻撃する各軍団長へ、苛立ちを隠そうともせずに進撃スピードの加速を指示しているが、このバックナーを見て第10軍の海兵隊副参謀長のオリバー・P・スミスは「バックナーには、沖縄近海に展開している海軍が、甚大な損害に耐えている間に進撃を加速させろという大きなプレッシャーが加えられていた。」と語っている[301]

首里戦線の第32軍の危機に、大本営は菊水六号作戦(5月11日~5月14日)菊水七号作戦(5月23日・24日)を発動した。11日には第58任務部隊の旗艦バンカーヒルが2機の特攻を受け大破、396名の戦死者と264名の負傷者を出すという甚大な損傷を受け、戦線離脱を余儀なくされた。「バンカーヒル」は後にアメリカ本土のピュージェット・サウンド海軍工廠で修理を受けたが、同海軍工廠史上、最悪の損傷レベルであった[302]。翌日に第58任務部隊の旗艦はエンタープライズに変更され、特攻機基地を制圧するために九州に接近したが、迎え撃った第5航空艦隊所属の富安中尉搭乗の零式艦上戦闘機が「エンタープライズ」に命中して大破させ、短い間に続けて同一のアメリカ艦隊の旗艦が特攻で大破するという事態に陥った。これは、第5艦隊(司令スプルーアンス)旗艦の重巡洋艦インディアナポリスと戦艦ニューメキシコ[303]、第54任務部隊(司令モートン・デヨ少将)旗艦の戦艦テネシー[304] と軽巡洋艦バーミングハムに続くもので、3つの艦隊旗艦が1つの作戦で敵の攻撃により2回も変更になるのは異例なことであった[305]

この当時のアメリカ艦隊の様子を1943年にピューリッツァー賞を受賞した従軍記者ハンソン・ボールドウィン英語版が取材している。

毎日が絶え間ない警報の連続だった。ぶっつづけに40日間も毎日毎夜、空襲があった。そのあと、やっと、悪天候のおかげで、短期間ながらほっと一息入れられたのである。ぐっすり眠る、これが誰もの憧れになり、夢となった。頭は照準器の上にいつしか垂れ、神経はすりきれ、誰もが怒りっぽくなった。艦長たちの目は真っ赤になり、恐ろしいほど面やつれした。(中略)時には攻撃の前夜に、乗員たちに戦闘準備の警報がラウンドスピーカーで告げられた。しかし、これはやめねばならなかった。待つ間の緊張、予期する恐怖、それが過去の経験によっていっそう生々しく心に迫り、そのためヒステリー状態に陥り、発狂し、あるいは精神消耗状態におちいった者もあったのである。— ハンソン・ボールドウィン[306]

第5艦隊は、日本軍の激しい特攻に対し、まったく防御一点張りのような戦術で常時作戦海域に留まっておらねばならず、上級指揮官らの緊張感は耐えられないくらい大きなものとなっており、ニミッツは前例のない戦闘継続中の艦隊の上級指揮官らの交代を行った。第5艦隊司令はスプルーアンスからウィリアム・ハルゼー・ジュニアに、第58任務部隊司令はマーク・ミッチャーからジョン・S・マケイン・シニアに交代となった[307]。スプルーアンス、ミッチャーともに沖縄戦中乗艦していた旗艦に2回ずつ特攻を受けており、いずれの艦も戦線離脱をしている。特にミッチャーがバンカーヒルで特攻を受けた時、特攻機はミッチャーの6mの至近距離に突入、奇跡的にミッチャーと参謀長のアーレイ・バーク代将は負傷しなかったが、艦隊幕僚や当番兵13名が戦死している。それらの心労で体重は大きく落込み、交代時には舷側の梯子を単独では登れないほどに疲労していた[308]。ミッチャーはこの後も体調がすぐれず、戦争終結後まもなく1947年に他界している[309]

アメリカ軍は占領した嘉手納飛行場や読谷飛行場や伊江島飛行場に、陸軍航空隊や海兵隊の戦闘機多数を配備し沖縄の制空権を確保しており[310]、特攻援護のために陸海軍の爆撃機や芙蓉部隊彗星艦上爆撃機などが執拗に夜襲を繰り返していたが[311]、飛行場機能に支障が出るほどの打撃を与えることはできていなかった。そこで日本軍は、菊水七号作戦時には、一時的にでもアメリカ軍飛行場を制圧し、その間に特攻機でアメリカ軍艦船を攻撃させるべく[312]陸軍空挺部隊から抽出したコマンド部隊義烈空挺隊」をアメリカ軍制圧下の飛行場に強行着陸させ破壊活動を行わせる義号作戦も発動した。熊本から12機の九七式重爆撃機改造輸送機(第3独立飛行隊)が出撃し、うち1機が読谷飛行場に強行着陸に成功、搭乗していた隊員と乗員が機体から飛び出すと、着陸している航空機や燃料集積所を襲撃し、飛行場の守備隊と激しい銃撃戦を行い、アメリカ軍戦闘機・爆撃機・輸送機9機が破壊炎上、29機が撃破され[313]、アメリカ兵20名が死傷し、ドラム缶600本分70,000ガロンの航空燃料も爆破焼失するなど飛行場機能に打撃を与え、読谷飛行場を地獄さながらの大混乱に陥らせて[314]、半日に渡って飛行場を使用不能としたが[315]、海軍はこれまで沖縄の飛行場を攻撃してきた芙蓉部隊が、攻撃日に慰労会の酒宴を開催しており攻撃に参加していないなど[316]、陸海軍の連携が不十分であったうえ、沖縄は義烈空挺隊が突入した翌5月25日からまた天候が崩れて、特攻機の出撃は少数に止まり、義号作戦の成果を十分に活かすことはできなかった[317]

特攻はこの後、本土決戦準備の航空戦力温存策による作戦機の枯渇もあり減衰していったが、アメリカ海軍が沖縄戦で特攻により受けた損害は甚大であり、公式記録上、沖縄戦でのアメリカ海軍の損害は、艦船沈没36隻、損傷368隻、艦上での戦死者は4,907名、負傷者4,824名と大きなものとなったが[318]、その大部分は特攻による損害で[319]、アメリカ海軍史上単一の作戦で受けた損害としては最悪のものとなっている[320]。この大損害によってアメリカ軍やその高官は大きな衝撃を受けており、その評価を以下に列挙する。

沖縄作戦で日本軍は、戦闘によって3,000機以上を喪失したが、そのうちの1,900機が特攻機だった。これらの特攻機は、トン数と死傷者数において、アメリカ海軍が過去の単一作戦で被ったより大きい損害を与えた。— 米国戦略爆撃調査団[320]
十分な訓練も受けていないパイロットが旧式機を操縦しても、集団特攻攻撃が水上艦艇にとって非常に危険であることが沖縄戦で証明された。終戦時でさえ、日本本土に接近する侵攻部隊に対し、日本空軍が特攻攻撃によって重大な損害を与える能力を有していたことは明白である。— 米国戦略爆撃調査団[321]
沖縄作戦は攻撃側にとってまことに高価なものであった。約13,000名のアメリカ兵が戦死したが、そのうち3,400名が海兵隊で、4,000名が海軍であった。艦隊における死傷者の大部分は日本機、主として特攻機の攻撃によって生じたものである。— チェスター・ニミッツ[322]
カミカゼが沖縄の沖合でアメリカ艦隊に与えた恐るべき人命と艦艇の損害について非常に憂慮している。日本本土に向かって進攻することになったならば、さらに大きな打撃を受けることになるであろう。
沖縄に対する作戦計画を作成していたとき、日本軍の特攻機がこのような大きな脅威になろうとは誰も考えていなかった。— レイモンド・スプルーアンス[323][324]
艦船90隻が撃沈され、または甚大な損害を受けた。この作戦は、大戦の全期間を通じ、もっとも高価についた海軍作戦となった。— サミュエル・モリソン[325]
大部分が特攻機から成る日本軍の攻撃で、アメリカ側は艦船の沈没36隻、破壊368隻、飛行機の喪失800機の損害を出した。これらの数字は、南太平洋艦隊がメルボルンから東京までの間に出したアメリカ側の損害の総計を超えている。— ダグラス・マッカーサー[326]

自らもイギリス軍の従軍記者として、空母フォーミダブルで取材中に特攻で負傷した経験を持ち、戦後にはロイター通信の東京支局長となり大英帝国勲章も受賞したジャーナリストのデニス・ウォーナーは、自らのライフワークとして特攻について調査し、下記の様に評価をしている。

航空特攻作戦は、連合軍の間に誇張する必要もない程の心理的衝撃を与え、またアメリカ太平洋艦隊に膨大な損害を与えた。アメリカ以外の国だったら、このような損害に耐えて、攻勢的な海軍作戦を戦い続ける事はできなかったであろう。そして、日本軍の特攻機だけがこのような打撃をアメリカ海軍に与える事が可能であったことだろう。— デニス・ウォーナー[327]

日米両軍司令官の戦死と自決

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沖縄戦の激戦地で戦い続けアメリカ軍を苦しめた歩兵第32連隊北郷格郎連隊長

5月25日に、それまで海軍連合艦隊の指揮下で沖縄方面で航空作戦を行ってきた陸軍第6航空軍は、連合艦隊の指揮下を脱した。その後6月9日をもって沖縄での主作戦を打ち切り、物資投下などの支援のみを行う事となった。[328] 陸軍機は喜屋武陣地上空に毎日のように単機〜数機飛来し、第32軍が要望していた対戦車爆雷の資材と15センチ榴弾の砲弾などを投下していったが第32軍の手に届く量は微々たるものだった。しかしかすかな希望を断続的に第32軍将兵に与える効果はあったという[329]

6月5日、アメリカ軍第24軍団が日本軍南部防衛線全線に渡って攻撃してきた。それを迎え撃つ日本軍は数は30,000名以上いたものの、正規の歩兵戦力はその内の11,000名に過ぎず、残りは火砲を失った砲兵や通信・整備・設営隊等の支援部隊や沖縄現地召集の防衛隊などであった[330]。日本軍は戦力不足ながら防衛線各所で善戦し、アメリカ軍を何度も撃退した。八重瀬岳を守備する独立混成第44旅団は、6月12日までアメリカ軍2個師団を3日間にわたり足止めし、13日に総攻撃を受け主力は壊滅したが、周囲の洞穴には多数の残存兵がおり、掃討戦が続けられた。

西側の戦線の国吉戦線では、歩兵第32連隊(連隊長北郷格郎大佐)以下1,500名前後の守備隊が、隣接する眞榮里高地を守備する歩兵第22連隊(連隊長吉田勝大佐)と共に、海兵師団相手に17日まで同丘陵地域を死守している。丘陵からの激しい射撃により、海兵隊に死傷者が続出13日には140名が死傷し撃退されている。丘の上では戦車の支援なしには立つこともできないぐらいの激しい日本軍の攻撃だったが、その戦車も速射砲で攻撃され、5日間で21両もの戦車が撃破された。それでも、アメリカ軍は1両の戦車に歩兵6名と弾薬を積み前線に送りこむ一方で、帰路に死傷者を積んで帰ってくるという強行で攻め続け[331]、激戦の結果、17日には「馬乗り攻撃」で眞榮里高地の歩兵第22連隊の司令部陣地を爆破、吉田連隊長が戦死、第32連隊第2大隊も残存兵力26名で大隊長以下突撃し全滅、5日間に渡る激戦の末に丘陵は制圧された。この間のアメリカ軍の死傷者は1,050名と大きいものになった[332]

アメリカ軍は日本兵や住民に対してビラ800万枚を撒いて投降を促した。バックナー司令官自らも牛島司令官宛に親書を送り、降伏勧告を行ったが、6月17日に親書を受け取った牛島司令官は一笑に付して拒絶した[注釈 21]

6月18日、日本軍の砲撃により戦死する直前の第10軍司令官バックナー中将(右)奥に見える岩の破片が砲弾の命中で吹き飛ばされて胸に当たり致命傷となった
牛島(手前)と長(奥)の遺体と伝えられる写真、ただし目撃者等による自決時の証言と遺体の状況が異なる

降伏勧告を牛島に送ったバックナーは、翌6月18日、喜屋武半島の最前線視察に出向いた。途中で第6海兵師団第22海兵連隊長のハロルド・ロバーツ大佐より「これより前線へはいかれぬよう。第96歩兵師団の前面の日本軍陣地から、かなりの側射弾がとんできますから」との忠告を受けたが、バックナーはそれを無視してさらに前線に進んだ。ロバーツはバックナーに忠告した1時間後に自らも日本軍の狙撃で戦死した。バックナーは第2海兵師団第8海兵連隊が戦う最前線に到達し、珊瑚礁の岩の隙間から戦闘の様子を眺めていたが、バックナーを発見した日本軍から攻撃を受け、まずは一式機動四十七粍速射砲が近くの岩に着弾[334]、その後、砲弾数発が着弾しそのうちの1発の炸裂で吹き上げられた破片がバックナーの胸を抉った。バックナーはその10分後に牛島への降伏勧告の回答を聞くこともなく戦死した。このバックナーを倒した砲弾はアメリカ陸軍の公式記録上では『 Dual-purpose gun英語版』(両用砲)の砲弾とされ口径までは特定されていないが[335]、アメリカ海兵隊の公式記録では一式機動四十七粍速射砲の砲弾とされ[336]、バックナーの付近にいたハバード補佐官ら2名が負傷しなかったことからも[337]、小口径の砲弾との見做されて、アメリカの資料では海兵隊の記録と同様に47㎜とされていることが多い[338][339]。日本側では、2002年に野戦重砲兵第1連隊第2大隊の元中隊長が長年の沈黙を破り、自分の指揮による九六式十五糎榴弾砲の砲撃だったと証言している[340]。他方、日本側には東京都出身の「小野一等兵」が小銃で狙撃したという証言もあるが、厚生省によると該当する兵士の存在は確認されていない[341]。バックナーは第二次世界大戦中アメリカ軍で敵の攻撃で戦死した最高位の軍人となった[342]。日本側にとって将官クラスの敵軍部隊最高指揮官を死亡させる大戦果であったものの、アメリカ軍有利の状況には変化はなかった。奇しくも、バックナーの戦死により、沖縄戦開始前に飛行機で事故死したミラード.F.ハーモン中将と、沖縄優先攻略を主張した司令官クラスの2名の中将がいずれも沖縄戦の終結を目にすることはできなかった[114]

バックナーが戦死した6月18日には、第32軍司令部と各部隊との通信が途絶し、軍としての組織的戦闘が不可能となっており、第32軍司令部は最後の命令を下達している。命令文は長野参謀が起案したが、長が「諸士よ、生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」の一項を付け加え、牛島が黙って署名している。その後に大本営と第10方面軍に訣別電報を送った[343]。また、訣別電報には辞世が添えらていた。

秋待たで枯れゆく島の青草は 皇国の春に甦らなむ
矢弾つき天地染めて散るとても 魂かえり魂かえりつつ皇国護らん— 牛島満
醜敵停滞南西地 飛機覆空艦圧海
敢闘九旬一夢中 万骨枯尽走天外— 長勇

バックナーの死の情報を第32軍が知ったのは、第32軍の訣別電報に対し、大本営から返電された参謀総長・陸軍大臣連名の訣別電報で「第32軍が人格高潔な牛島将軍の下、勇戦敢闘実に3か月、敵の首将シモン・バックナーを斃し、その麾下8個師団に痛撃を与え…貴軍の奮闘により、今や本土決戦の準備は完整せり。敵もし本土に侵寇せば、誓って仇敵を撃滅し、貴軍将兵の忠誠に対えん」というものであった。

長と八原ら参謀は、まるで沖縄戦に勝利したかのように錯覚するほどの喜びを覚えたが、八原が牛島を見ると、参謀らの狂喜を当惑した表情で見ており、敵将の死を悼んでいるようであった。八原はその牛島の様子を見て、牛島の人柄を再認識し自分も襟を正す気持ちになったという[344]

アメリカ第10軍の指揮は、第3水陸両用軍団長のロイ・S・ガイガー海兵中将(少将より昇進)が司令官代理を務め、同月23日にはジョセフ・W・スティルウェル大将が後任の司令官となった。また、翌日には第96師団副師団長クラウディウス・M・イーズリー准将英語版も日本軍の機銃掃射を頭部に受けて戦死している[345]。イーズリーはレイテの戦いでも日本兵の狙撃で負傷してパープルハート章を授与されていたが、続く沖縄戦では戦死することになった[346]

ひめゆり部隊の女生徒多数が死亡した地下壕(第三外科壕)に建立された慰霊碑「ひめゆりの塔」、奥は犠牲者の名を刻んだ慰霊碑(納骨堂)

日本軍の戦線崩壊は次第に進み、喜屋武地区を守備していた、軍主力の第24師団も、既に師団としての組織的抵抗が不能な状態となっていた。この頃になると、日本軍では野戦病院で横たわる治療の術のない多数の傷病兵に、毒薬を注射したり青酸カリを配布して自決を促したり[347]、動ける兵も、アメリカ軍に追い詰められると、手榴弾で自決することを選び、一日4,000名の兵士が亡くなっていた[348]。沖縄戦での日本軍の戦死者のうちで実に47%が6月の1か月間で戦死している[349]

また、軍と行動を共にしていたひめゆり部隊も、6月19日に陸軍野戦病院の地下壕でアメリカ兵から投げ込まれた黄燐手榴弾と火炎放射器で多数が死亡、生き残った女生徒の一部も、6月22日にアメリカ軍の捕虜となれば暴行や拷問を受けると考えて、断崖から身を投げており、ひめゆり部隊の女生徒の犠牲者は125名にもなった[350]。軍の組織崩壊も始まり、今までほとんど見られなかった集団投降も増えてきた。6月20日に摩文仁岳東端を占領したアメリカ軍第32歩兵連隊は977名もの大量の日本兵を捕虜にした[351]

6月23日午前4時ごろ(6月20日、6月22日との説もある)、日本の沖縄守備軍最高指揮官牛島と参謀長の長が、摩文仁の軍司令部で自決した。これによって沖縄守備軍の指揮系統は完全に消滅した。24日頃には基幹部隊であった歩兵第22・第89連隊は、軍旗を奉焼し玉砕(全滅)。大本営も、6月22日の菊水十号作戦をもって菊水作戦を終了し、6月25日に沖縄本島における組織的な戦闘の終了を発表した。第32軍司令部の自決を知ったアメリカ軍は、第10軍の各軍団長や師団長・幕僚が整列し、軍楽隊が「星条旗よ永遠なれ」を奏でる中、星条旗をポールに高く掲げる戦勝のセレモニーを行っている[352]

アメリカ軍からは「見事に首里を撤退し、時をうつさず南部に新たな戦線を確立した」「アメリカ軍が全力をあげて集中攻撃を加えても、戦闘を終わらすまでに三週間以上を要したのである。」と軍事的視点から高く評価された第32軍の南部撤退であったが[353]、戦火を逃れて南部に避難していた大量の住民との軍民の混交を招き、住民の犠牲を激増させる要因になり[354]、沖縄戦における住民の戦没者全体の6割が、第32軍が南部撤退した6月以降に南部地域において犠牲になっており[355]、戦後の日本においては第32軍の南部撤退の判断は批判されることが多い[356]

その後の戦闘と終戦

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立てこもる日本兵や住民に投降を呼びかける日本兵捕虜
1945年9月7日に行われた琉球方面の日本軍の降伏式典、戦場には投入されなかったアメリカ軍重戦車M26パーシングが整列している
対日戦勝記念日(VJ Day)に戦利品の軍刀でケーキを切るアメリカ軍海兵隊員

第32軍司令部消滅後の6月23日から、アメリカ軍は沖縄南部の残存日本兵の掃討作戦を開始した。いまや孤立化し組織的抵抗ができなくなった日本軍の陣地を、ひとつずつ爆薬で日本兵ごと生き埋めにするか、火炎放射器で焼き払った。またサトウキビ畑や水田に隠れている日本兵も1名ずつ燻り出した。陣地から突撃しアメリカ軍の前線を突破しようとした日本軍部隊と激戦になることもあったが、6月30日までには日本軍の抵抗は微弱となった。この掃討作戦で日本兵8,975名が戦死し、2,902名が捕虜となったが、アメリカ軍の損害は783名であった。日本軍の組織的抵抗は終わったと考えたアメリカ軍は1945年7月2日に沖縄作戦終了を宣告した[357]

しかし、この後も残存兵力による散発的な戦闘は本島各地で続いた。これは、第32軍司令部の最後の打電が「親愛なる諸子よ。諸子は勇戦敢闘、じつに3ヶ月。すでにその任務を完遂せり。諸子の忠勇勇武は燦として後世を照らさん。いまや戦線錯綜し、通信また途絶し、予の指揮は不可能となれり。自今諸子は、各々陣地に拠り、所在上級者の指揮に従い、祖国のため最後まで敢闘せよ。さらば、この命令が最後なり。諸子よ、生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」と最後までの抵抗を命ずるもので、結果的に終戦まで多くの日本兵や沖縄県民を縛り、多くの犠牲者を出す原因となってしまった[358]。牛島個人としては「沖縄県民はよく尽くしてくれた。たとえ、日本本土のどこかが戦場になったとしても、これ以上の協力はないであろう。沖縄の住民を戦の道連れにすることは、まことに忍び難い」と語っていたとされるが[359]、戦後の沖縄県民の間には牛島に対し、今も厳しい見方がある[360]

陸軍の第8飛行師団隷下飛行第10戦隊の一〇〇式司偵は、沖縄方面に対する偵察飛行を8月に至るまで継続している[361]、海軍による特攻機を含む沖縄県方面への航空攻撃も続けられており、7月28日には九三式中間練習機の体当りで駆逐艦「キャラハン」を沈めているが、これは特攻による最後の撃沈戦果であった[362]。8月12日には第1戦艦戦隊旗艦戦艦「ペンシルベニア」を雷撃機による通常攻撃で大破させ、司令官のジェシー・B・オルデンドルフ中将に重傷を負わせている[363]。8月15日の玉音放送後にも、菊水作戦の指揮をとった宇垣纏海軍中将が部下を引き連れて沖縄方面へ特攻出撃している。

また海軍は、沖縄とフィリピン、ウルシー、グァムといったアメリカ軍泊地との連絡路に対し回天特攻「多聞隊」の6隻の伊号潜を出撃させていたが、内「伊53潜」が勝山淳中尉の搭乗する回天で、7月24日に沖縄からフィリピンに航行中の護衛駆逐艦「アンダーヒル」を撃沈、また7月29日には「伊58潜」がテニアン島からフィリピンに向かって航行中であった重巡「インディアナポリス」を通常の魚雷攻撃で撃沈している[364]

日本は8月14日にポツダム宣言を受諾して降伏した。その夜には、祝砲としてアメリカ軍のありとあらゆる火器が夜空へいっせいに撃ちあげられ、あたかも数千発の花火がいっせいにさく裂したかのような壮観さであったが、日本の降伏の事実を知らない日本兵たちは、アメリカ軍内に異常事態が発生したものと考えて警戒を厳重にしている[365]

沖縄戦初期の前田高地の激戦から末期の国吉高地まで、終始激戦の最前線で戦ってきた第24師団歩兵第32連隊は、約3,000名の将兵が250名にまで減りながらも、終戦まで国吉の洞窟陣地内で抵抗を続けていた。夜襲により、アメリカ軍の食料などの物資、多数の自動小銃や軽機関銃などの兵器を奪取して士気も旺盛であった。8月22日に白旗を掲げたアメリカ軍二世兵士が連隊本部に接触してきて日本の降伏を告げたが、連隊長の北郷は事実確認のために、北郷の下で勇戦敢闘してきた第1大隊長の伊東孝一大尉をアメリカ軍の司令部に行かせた。伊東はそこで玉音放送の録音を聞いたが、昭和天皇の声を聞いたことがなかったので「この録音だけでは降伏を信ずることはできぬ、帰って協議する、不調と決まればわが方から発砲する」とアメリカ軍に告げ、連隊司令部に戻って北郷に報告した。若い将校らは最後の突撃による玉砕を主張したが北郷は「陛下の命に従う」との断を下した。北郷は軍旗の奉焼を命じ、28日午前零時に厳かに軍旗奉焼式が行われたが、連隊旗手の斎藤中二郎中尉が式が終わったのち、手榴弾で自決しようと決意しているのを察して「斎藤、勝手な行動は許さんぞ、連隊の行動すべての責任は自分にある。軍旗も同様だ、旗手たるお前ももちろんのことだ」と厳しく諫めた[366]。翌29日、生存者全員が髭を剃り容姿を整えたのちに「天皇陛下の命により、米軍の方へ行く」と最後まで投降という言葉を使うことなく、アメリカ軍の武装解除を受けたが[367]、アメリカ軍の出迎えは非常に丁重だったという[365]。9月3日には本島北部の海軍第27魚雷艇隊(運天港・隊長白石信次大尉)183名が、地元市長の投降の勧めに応じ、アメリカ軍に投降している[368]

第32軍司令部の中では、高級参謀の八原が、牛島から命じられた戦訓伝達の任務のため日本本土への脱出途中で捕虜になったが[369]、同じ戦訓報告任務を受けていた航空参謀の神直道少佐(後に中佐)は、無事に本土に脱出して生き残っている[注釈 22]。一方、長野作戦参謀、薬丸情報参謀、木村後方参謀、三宅通信参謀はそれぞれ遊撃戦指導、大本営報告のため司令部を出て北部への脱出を計ったが成功せず、全員戦死したか行方不明となっている[370]。轟の壕では、内務省沖縄特高課長佐藤喜一により、避難民に投降が勧告され多くの住民がアメリカ軍に収容されている[371]

9月7日に南西諸島の軍を代表して第28師団司令官納見敏郎中将と高田利貞少将、加藤唯雄海軍少将の3名が日本軍の沖縄戦降伏文書に調印し、ジョセフ・スティルウェル米国陸軍大将が日本軍の降伏を受諾し署名することで、沖縄戦が公式に終結した[372][373][注釈 23]