日本の現代歴史  語り継ごう原爆投下  昭和史・平成史・現代史
 原子爆弾の使用、無差別爆撃、大量虐殺、毒ガス、科学細菌兵器 言い訳なしの説明を求めます  市民を狙ったおぞましい犯行
日本人にしかできない戦争の話 世界の平和と人間の未来について「語り合おう・・

現代を語り継ごう(チャット)

過去を語る
 日清・日露戦争
 太平洋戦争

 原爆投下
 東京大空襲
 沖縄戦の歴史
 七三一部隊
 終戦の動き核実験と原発事故
 大規模災害

 日本の歴史年表
 太平洋戦争年表

2今を語る
 世界の動き
 
政治資金と裏金問題
 
物価高&低賃金
 
統一教会&選挙
 
軍事費&武器輸出
 
能登地震
 
水害
 
地震
 
地球温暖化&災害 
 
その他注目ニュース
  
3未来を語る 
 
戦争のない平和な日本を
 
日本国憲法
 
あたらしい憲法の話
 
自民党の憲法改正草案
 
いじめ・セクハラ・禁止
 
個人が尊重される社会へ  

4創作
 川柳・俳句・つぶやき
 
詩歌
 
エッセイ
 
短篇小説
 
その他 

5動画創作
 

原爆投下

日本への原子爆弾投下(にほんへのげんしばくだんとうか)は、第二次世界大戦大東亜戦争/太平洋戦争)の末期である1945年昭和20年)8月に、連合国アメリカ合衆国枢軸国日本に投下した2発の原子爆弾による空爆。1945年7月マンハッタン計画によって史上初の核実験が行われた[2]。これらの投下は世界で唯一核兵器が実戦使用されたものである。日本国内においては、下級審であるが1963年東京地方裁判所の判決により、これらの原爆投下は「国際法違反であった」という司法的判断が示されている[3][4][5]

投下地 Place 日付 Day 原子核 Nuclear 爆撃機 Bomber 爆弾 Bomb
広島市 1945年8月6日 ウラン エノラゲイ リトルボーイ
長崎市 1945年8月9日 プルトニウム ボックスカー ファットマン
1945年8月6日広島市に投下された原子爆弾については、「広島市への原子爆弾投下」を参照。
1945年8月9日長崎市に投下された原子爆弾については、「長崎市への原子爆弾投下」を参照。

本稿は、広島市に投下されたリトルボーイ、長崎市に投下されたファットマンの2発、および投下されなかった3発目の原子爆弾を含めて総論的に述べる。

投下の理由

[編集]

第二次世界大戦大東亜戦争/太平洋戦争)における日本列島での上陸直接戦闘ダウンフォール作戦日本軍では「決号作戦」)を回避し、早期に決着させるために原子爆弾が使用されたとするのが、アメリカ政府による公式な説明である。

1932年から日米開戦時まで10年間駐日大使を務め、戦争末期には国務長官代理を務めたジョセフ・グルーは、「ハリー・S・トルーマン大統領が(グルーの勧告どおりに)、皇室維持条項を含む最後通告を1945年5月の段階で発していたなら、日本は6月か7月に降伏していたので原爆投下は必要なかった」と述べている[6]

アメリカのABCテレビ1995年に放送した「ヒロシマ・なぜ原爆は投下されたのか(Hiroshima: Why the Bomb was Dropped)」という番組[7]では「原爆投下か本土上陸作戦しか選択肢がなかったというのは歴史的事実ではない。他に皇室維持条項つきの降伏勧告(のちにこの条項が削除されてポツダム宣言となる)を出すなどの選択肢もあった。従って、原爆投下という選択はしっかりとした根拠に基づいて決断されたものとはいえない」という結論を示した[8]

しかし、この問題について、米国の歴史家アレックス・ウェラースタインは当時日本は表向き中立国であったソ連を通じて和平工作を行っていたので、皇室維持条項を付けても広島への原爆投下がなければ日本は降伏に応じることはなかっただろうという結論を示している[9]。また、アメリカ在住の日露関係史等を専門とする歴史家長谷川毅は、日本の降伏につながったのは広島とソ連の満州侵攻の組み合わせであったことを示唆しているとされる[10]。(一方で、トルーマンらは原爆実験成功後の1945年7月18日の会議においても、日本政府が無条件降伏を受入れても日本軍が抗戦を続ける場合に備え、既に原爆を投下していることを前提に同年11月1日に南九州進攻を行うことを検討していたとされる[10]。)

原爆を日本に使用する場合、大きく分けて以下の3つの選択肢があった。

  1. 原爆を無人島、あるいは日本本土以外の島に落として威力をデモンストレーションする。
  2. 原爆を軍事目標(軍港基地など)に落とし大量破壊する。
  3. 原爆を人口が密集した大都市に投下して市民を無差別に大量殺戮する。

また、原爆を使用するにしても、2つの方法があった。(A)事前警告してから使用する。(B)事前警告なしで使用する。1の使い方ならば、絶大な威力は持っているがただの爆弾ということになり、さらに2ならば大量破壊兵器、3ならば大量殺戮兵器になり、いずれも国際法に違反して、人道に反する大罪となる。しかし、3と(A)の組み合わせならば、警告がしっかりと受け止められて退避行動をとることができれば死傷者の数をかなり少なくできる可能性があり、大量殺戮兵器として使ったとは言えなくなるかもしれない。3と(B)の組み合わせならば、まちがいなく無差別大量殺戮であり、しかもその意図がより明確なので、それだけ罪が重くなると言える。この違いを、原爆を開発した科学者たちや、1945年5月31日に都市への無警告投下を決定した暫定委員会のメンバー、真珠湾攻撃の復讐を公言していたトルーマン大統領、彼とタッグを組んでいたジェームズ・F・バーンズ国務長官たちは非常によく理解していた。たとえば、海軍次官のラルフ・バードはあとになって、自分は事前警告なしでの使用には同意しないと文書で伝えた[11]フランクリン・ルーズベルト大統領は1944年9月22日の段階で、実際の原爆を日本に使用するのか、それとも、この国で実験して脅威として使用するのかという問題を取り上げていた。同年9月30日には、アメリカ科学研究開発局長官のヴァネヴァー・ブッシュとアメリカ国防研究委員会化学・爆発物部門の主任ジェイムス・コナントヘンリー・スティムソン陸軍長官に「原爆は最初の使用は、敵国の領土か、さもなければわが国でするのがいい。そして、降伏しなければ、これが日本本土に使われることになると日本に警告するとよい」と勧めた[12]。1945年5月、イギリスはアメリカに、日本に対して原爆使用前に警告を与えるべきであると文書で要望していた[13]

レオ・シラードが、原爆と原子力利用について大統領に諮問する暫定委員会に大統領代理として加わっていたバーンズ(約1ヶ月後に国務長官となる)と、1945年5月28日に会見したときに得た「バーンズは戦後のロシアの振る舞いについて懸念していた。ロシア軍ルーマニアハンガリーに入り込んでいて、これらの国々から撤退するよう説得するのは難しいと彼は思っていた。そして、アメリカの軍事力を印象づければ、そして原爆の威力を見せつければ、扱いやすくなると思っていた」という証言は、「アメリカはソ連のヨーロッパでの勢力拡大を抑止するために原爆を使った」という主張の根拠となっている[14]

戦後の世界覇権を狙うアメリカが、原子爆弾を実戦使用することによりその国力軍事力を世界に誇示する戦略であったとする説や、併せてその放射線障害人体実験を行うためであったという説、更にはアメリカ軍が主導で仕組んだ説があり、広島にはウラン型(リトルボーイ)、長崎へはプルトニウム型(ファットマン)とそれぞれ違うタイプの原子爆弾が使用された。豊田利幸はウランの核爆発が実験で確認できなかったためと推測している[15]

背景と経緯

[編集]

日本への原子爆弾投下までの道程は、その6年前のルーズベルト大統領に届けられた科学者たちの手紙にさかのぼる。そして、マンハッタン計画(DSM計画)により開発中であった原子爆弾の使用対象として日本が決定されたのは1943年5月であった。一方で、原子爆弾投下を阻止しようと行動した人々の存在もあった。

具体的に広島市が目標と決定されたのは1945年5月10日であり、長崎市は投下直前の7月24日に予備目標地として決定された。また、京都市新潟市小倉市(現・北九州市、長崎市に投下されたファットマンの当初目標地)などが候補地とされていた。

イギリスとアメリカと日本における政策上の背景と経緯

[編集]

1939年1月、イギリス国王書簡局発行『年2回刊 陸軍将校リスト 1939年1月号』に、昭和天皇の名がイギリス正規軍陸軍元帥として掲載される[16]

1939年8月2日、アメリカへの亡命物理学者のレオ・シラードらからの提案を受けたアルベルト・アインシュタインがルーズベルト大統領に宛てた手紙において、原子爆弾がドイツにより開発される可能性に言及し、核エネルギー開発の支援を進言。

1939年9月1日第二次世界大戦が始まる。

1939年10月11日、その手紙(アインシュタイン=シラードの手紙)がルーズベルト米大統領に届けられる。

1939年10月21日、アメリカはウラン諮問委員会を設置。

1940年4月10日、イギリスが、第一回ウラン爆発軍事応用委員会(MAUD委員会)の会議を開催。

1940年4月理化学研究所仁科芳雄がウラン爆弾計画を安田武雄陸軍航空技術研究所長に進言[17]

1940年4月、安田武雄中将が部下の鈴木辰三郎[注 2] に「原子爆弾の製造が可能であるかどうか」について調査を命じた。

1940年6月、鈴木辰三郎は東京帝国大学(現・東京大学)の物理学者嵯峨根遼吉(当時は助教授)の助言を得て、2か月後に「原子爆弾の製造が可能である」ことを主旨とする報告書を提出[注 2]

1940年7月6日、すでに仁科芳雄等がイギリスの学術雑誌『ネイチャー』に投稿してあった『Fission Products of Uranium produced by Fast Neutrons(高速中性子によって生成された核分裂生成物)』と題する、2個の中性子が放出される (n. 2n) 反応や、複数の対象核分裂を伴う核分裂連鎖反応(臨界事故)を起こした実験成果が、掲載された[18]。この実験では臨界量を超える天然ウランウラン238-99.3%, ウラン235-0.7%)に高速中性子を照射したわけだが、現在ではそのことによってプルトニウム239が生成されることや、核爆発を起こすことが知られている[19]

1941年4月、日本陸軍が理研に原爆の開発を依頼。ニ号研究と名付けられた[20]

1941年7月15日、イギリスのMAUD委員会は、ウラン爆弾が実現可能だとする最終報告を承認して解散。

1941年10月3日、MAUD委員会最終報告書が、公式にルーズベルト大統領に届けられる。

1941年11月末、後に連合国軍最高司令官総司令部の主要メンバーとなるユダヤ人ベアテ・シロタ・ゴードンの母で、日本の貴族院議員のサロンを主催していたオーギュスティーヌが、夫レオ・シロタと共にハワイから再来日。

1941年12月8日、日本がイギリス領マラヤマレー作戦を、アメリカ準州のハワイで真珠湾攻撃を行ない、第二次世界大戦大東亜戦争/太平洋戦争)が勃発。日本とアメリカは敵味方として第二次世界大戦に参戦することとなった。

1942年9月26日、アメリカの軍需生産委員会英語版が、マンハッタン計画を最高の戦時優先等級に位置づけた。

1942年10月11日、アメリカはイギリスにマンハッタン計画への参画を要請。

1944年7月9日朝日新聞に、『決勝の新兵器』と題して「ウラニウムに中性子を当てればよいわけだが、宇宙線には中性子が含まれているので、早期爆発の危険がある。そこで中性子を通さないカドミウムの箱に詰め、いざという時に覆をとり、連鎖反応を防ぐために別々に作ったウラニウムを一緒にして中性子を当てればよい。」という記事が掲載された。ウラン原爆の起爆操作と全く同じであった[21]

1945年7月26日、日本への最後通告としてポツダム宣言を発表した。

ルーズベルトの決断

[編集]
フランクリン・ルーズベルト米大統領
原子爆弾の理論計算をしたオットー・ロベルト・フリッシュ(PJ時のID Card)
マンハッタン計画の開発総責任者のロバート・オッペンハイマー(PJ時のID Card)

1939年9月1日に第二次世界大戦が勃発した。ユダヤ人迫害政策を取るナチス党率いるドイツから逃れてアメリカに亡命していた物理学者のレオ・シラードたちは、当時研究が始まっていた原子爆弾をドイツが保有することを憂慮し、アインシュタインとの相談によって、原子爆弾の可能性と政府の注意喚起をルーズベルト大統領へ進言する手紙を作成した[22]。アインシュタインの署名を得たこの手紙は1939年10月11日に届けられた[23]。その手紙には原子爆弾の原材料となるウラニウム(ウラン)鉱石の埋蔵地の位置も示されていた。ヨーロッパのチェコのウラン鉱山はドイツの支配下であり、アフリカコンゴのウラン鉱山をアメリカが早急におさえることをほのめかしている[24]。ルーズベルト大統領は意見を受けてウラン諮問委員会を一応発足させたものの、この時点ではまだ核兵器の実現可能性は未知数であり、大きな関心は示さなかった[25]

2年後の1941年7月、イギリスの亡命物理学者オットー・ロベルト・フリッシュ (Otto Robert Frisch) とドイツのルドルフ・パイエルスウラン型原子爆弾の基本原理とこれに必要なウランの臨界量の理論計算をレポートにまとめ、これによってイギリスの原子爆弾開発を検討する委員会であるMAUD委員会が作られた[26][27]。そこで初めて原子爆弾が実現可能なものであり、航空爆撃機に搭載可能な大きさであることが明らかにされた[28][29]ウィンストン・チャーチル首相北アフリカでのイギリス軍の大敗などを憂慮してアメリカに働きかけ、このレポートの内容を検討したルーズベルト大統領は1941年10月に原子爆弾の開発を決断した。

1942年6月、ルーズベルトはマンハッタン計画を秘密裏に開始させた。総括責任者にはレズリー・グローヴス准将を任命した。1943年4月にはニューメキシコ州に有名なロスアラモス国立研究所が設置される。開発総責任者はロバート・オッペンハイマー博士。20億ドルの資金と科学者・技術者を総動員したこの国家計画の技術上の中心課題はウランの濃縮である。テネシー州オークリッジに巨大なウラン濃縮工場が建造され、2年後の1944年6月には高濃縮ウランの製造に目途がついた。

1944年9月18日、ルーズベルトとチャーチルは、ニューヨーク州ハイドパークで米英首脳会談を行った。内容は核に関する秘密協定(ハイドパーク協定)であり、原爆が完成すれば日本への原子爆弾投下の意志が示され、核開発に関する米英の協力と将来の核管理についての合意がなされた。

前後して、ルーズベルトは原子爆弾投下の実行部隊(第509混成部隊)の編成を指示した。混成部隊とは陸海軍から集めて編成されたための名前である。1944年9月1日に隊長を任命されたポール・ティベッツ陸軍中佐は、12月に編成を完了し(B-29計14機および部隊総員1,767人)、ユタ州のウェンドバー基地で原子爆弾投下の秘密訓練を開始した。1945年2月には原子爆弾投下機の基地はテニアン島に決定され、部隊は1945年5月18日にテニアン島に移動し、日本本土への原爆投下に向けた準備を開始した。

原子爆弾投下阻止の試みと挫折

[編集]
核分裂を予言したボーア

デンマークの理論物理学者ニールス・ボーアは、1939年2月7日、ウラン同位体の中でウラン235が低速中性子によって核分裂すると予言し、同年4月25日に核分裂の理論を米物理学会で発表した。この時点ではボーアは自分の発見が世界にもたらす影響の大きさに気づいていなかった。

1939年9月1日、第二次世界大戦が勃発し、ドイツによるヨーロッパ支配拡大とユダヤ人迫害を見て、ボーアは1943年12月にイギリスへ逃れた。そこで彼は米英による原子力研究が平和利用ではなく、原子爆弾として開発が進められていることを知る。原子爆弾による世界の不安定化を怖れたボーアは、これ以後ソ連も含めた原子力国際管理協定の必要性を米英の指導者に訴えることに尽力することになる。

1944年5月16日に、ボーアはチャーチルと会談したが説得に失敗、同年8月26日にはルーズベルトとも会談したが同様に失敗した。逆に同年9月18日の米英のハイドパーク協定(既述)では、ボーアの活動監視と、当時英米との対立姿勢が目立ってきたソ連との接触阻止が盛り込まれてしまう。さらに、ルーズベルト死後の1945年4月25日に、ボーアは科学行政官のヴァネヴァー・ブッシュと会談し説得を試みたが、彼の声が時の政権へ届くことはなかった。

また、1944年7月にシカゴ大学冶金研究所のアーサー・コンプトンが発足させたジェフリーズ委員会が原子力計画の将来について検討を行い、1944年11月18日に「ニュークレオニクス要綱」をまとめ、原子力は平和利用のための開発に注力すべきで、原子爆弾として都市破壊を行うことを目的とすべきではないと提言した。しかし、この提言が生かされることがなくなったのは、トルーマンが政権を引き継いでからのことである。

歴史作家の鳥居民は、当初、ルーズベルトは、原子爆弾を最初から日本に投下するつもりはなく、1944年5月に日本への無条件降伏の要求を取り下げ、アメリカ国務省極東局長を対日強硬策を布いたスタンリー・クール・ホーンベックから、駐日大使を歴任したジョセフ・グルーに交代するなど、日本への和平工作を行っていたとする[30]。また、鳥居は、これらのアメリカ側の動きを、日本側はアメリカ軍の損耗を最小限にするため行っているという認識であったが、ルーズベルトは、中国国共内戦が勃発することを恐れており、その予防に兵力を振り向けたい思いで、動いていたとする[30]

これに対し、ワシントン大学名誉教授で日本研究者のケネス・パイルは、ルーズベルトはドイツや日本に対し一貫して無条件降伏を求めたとする[31]

トルーマン政権と軍の攻防、和平工作の破綻

[編集]
「フランクレポート」を提出したフランク

1945年4月12日にルーズベルトが急死したことによって、急遽、副大統領だったハリー・S・トルーマンが第33代大統領に昇進した。

ナチス・ドイツ降伏後の1945年5月28日には、アメリカに核開発を進言したその人であるレオ・シラードが、後の国務長官バーンズに原子爆弾使用の反対を訴えている[32]

バーンズマンハッタン計画の責任者の一人として、東ヨーロッパで覇権を強めるソ連を牽制するために、日本に対する原爆攻撃を支持しており、天皇の護持が容れられれば、日本には終戦交渉の余地があるとする、戦後日本を有望な投資先と考える国務次官グルー、陸軍長官スティムソン、海軍長官ジェームズ・フォレスタルら三人委員会とは正反対の路線であった。「一発で都市を吹っ飛ばせる兵器を、我々アメリカが所有していることを事前警告すべきである。それでも降伏しなければ原爆を投下すると日本政府に伝えるべきだ」と主張し無警告の原爆投下に反対を訴えた陸軍次官のジョン・J・マクロイに対して、バーンズは「それはアメリカの弱さを示すものだ、原爆投下前に天皇制を保証し降伏を呼びかけるのは反対だ」と述べる[33]

1945年6月11日には、シカゴ大学のジェイムス・フランクが、グレン・シーボーグ、レオ・シラード、ドナルド・ヒューズ、J・C・スターンス、ユージン・ラビノウィッチ、J・J・ニクソンたち7名の科学者と連名で報告書「フランクレポート」を大統領諮問委員会である暫定委員会に提出した[34]。その中で、社会倫理的に都市への原子爆弾投下に反対し、砂漠か無人島でその威力を各国にデモンストレーションすることにより戦争終結の目的が果たせると提案したが、暫定委員会の決定が覆ることはなかった。また同レポートで、核兵器の国際管理の必要性をも訴えていた[35]

1945年7月1日、チャーチル英首相がアメリカによる日本への原爆使用に最終同意して署名していたことが、後に英国立公文書館所蔵の秘密文書で判明した。打診は、アメリカが核兵器開発に成功してもイギリスが同意しなければ使用できないなどと定めた1943年8月の「ケベック協定」に基づく。[36]なお、原爆投下前にチャーチルは首相を退任している。

さらに1945年7月12日、シカゴ大学冶金研究所で原爆の対日使用に関するアンケートがあった。それによると、科学者150人のうちの85%が無警告での原爆投下に反対を表明している。7月17日にもシラードら科学者たちが連名で原子爆弾使用反対の大統領への請願書を提出したが、原爆投下前にトルーマンに届けられることはなかった[37]。マンハッタン計画の指揮官であるグローヴス陸軍少将が請願書を手元に置き、大統領に届かないように妨害したためであった。

軍人では、アメリカ太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ提督が、都市への投下には消極的で、ロタ島への爆撃を示唆したという。後に共和党から大統領となったドワイト・D・アイゼンハワー将軍は、戦後の書簡[38]や回顧録等で、既に広島投下前の1945年7月20日に当時ベルギーのアントワープに来ていたスティムソン陸軍長官らに対日戦に原子爆弾の使用はもはや不要であることを述べたと主張している。ただし、多くの裏付け情報を調べたとされる歴史家のバートン・バーンスタインは、アイゼンハワーはおそらくこのようなことは言っていないと結論づけている[39][40](参照:ドワイト・D・アイゼンハワー#広島とその原爆投下反対に関する問題)。また同時期、アイゼンハワーは極東での日本との戦争にソ連を参戦させないよう進言していたともされ、寧ろこちらの結果として、トルーマンらは日本を早期降伏させるために原爆投下を決定したとする説もある[41]。(なお、作家の北杜夫のように、原爆投下が日本の降伏決定を早め、そのためソ連軍が日本に上陸することなく、日本の分割占領が防がれたと考える日本人もいる[42]。)

また連邦政府側近でも、ラルフ・バードのように原子爆弾を使用するとしても、事前警告無しに投下することに反対する者もいた。7月24日のポツダム会談でチャーチルは、1944年9月にトルーマンの前任のルーズベルトと日本への原爆使用を密約した「ハイドパーク協定」を持ち出し、「警告なしで使用すべきだ」とトルーマンに迫った。大統領だったトルーマン自身は、自身の日記に「原爆の投下場所は、軍事基地を目標にする事。決して一般市民をターゲットにする事がないようにとスティムソンに言った。」と記述していたため、非戦闘員である民間人を殺戮する原爆投下には反対していたことが明らかと主張される。[要出典]

歴史家のアレックス・ウェラースタインによれば、従来、原爆使用の決定理由として、従来2つの大きな流れがあったとする。一つは、戦後まもなくスティムソン[43]やトルーマンによって語られた説明で「戦争を早期終結させ、より多数の米兵と日本人の生命を救うため」に決定されたとするもの、もう一つは、ガー・アルペロヴィッツが特に(それ以前からあったが)1980年代-1990年代に喧伝した「ソ連に威力を見せつけるため」とするものである[44]。ウェラースタインは、実際の歴史過程はより複雑で今日の歴史家はどちらかの単純な考え方は否定する傾向があるとし、ウェラースタイン自身はそれまでの様々な積み上げの結果と考えていて、その意味で、上述のような「(トルーマンの)原爆使用決定」の物語は正しくないとしている[44]。グローブスの自伝によれば、投下目標委員会によって京都を含む4つの目標都市が当初選ばれたとし、グローブス自身は計画自体がかなり秘密にされていたため目標委員会関係者にさえ、よくある新兵器の一つと思われる可能性を嫌い、原爆の使用は大統領(原文:ワシントン)の権限としたが、その一方で、グローブスの起草した投下指令書の文面は、当時ポツダムにいたマーシャル参謀総長(トルーマンの関りが曖昧になっている)の下に正式決定を得るための覚書とともに送ったとする[45]。ウェラースタインは、実際の各都市投下への総意がこういった過程を通して決まっていったと考えていて、その意味でトルーマン自身が正式に承認したというタイミングは確認できないようだと考えている[44]。しかし、これは同時にトルーマンが都市投下を明確に拒否したこともなかったことも意味する。今日我々が見る原爆投下発表の収録動画では、トルーマンは明確にTNT火薬2万トンを超える破壊力と言っていて、さらに、収録の合い間にはフィルムが止まっていると思ったのか真剣だった表情を崩して、成功を聞いた喜びからか満面の笑顔を浮かべている。なお、ウェラースタインは、スチムソンがトルーマンに進言して京都を投下目標から外す過程の中で、トルーマンが広島を多数の民間人も住んでいる都市ではなく、単なる軍事基地か軍事拠点と誤解した節があるとしている[46]

ワシントンで原爆投下の一報を聞いたグローブスは、原爆開発をした科学者たちに対し「君たちを誇りに思う。」とねぎらったという。