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原子爆弾の使用、無差別爆撃、大量虐殺、毒ガス、科学細菌兵器 言い訳なしの説明を求めます 市民を狙ったおぞましい犯行 日本人にしかできない戦争の話 世界の平和と人間の未来について「語り合おう・・・ |
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![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 東京大空襲(とうきょうだいくうしゅう)は、第二次世界大戦(太平洋戦争)末期にアメリカ合衆国により行われた、東京都区部に対するM69焼夷弾などの焼夷弾を用いた大規模な戦略爆撃の総称。日本各地に対する日本本土空襲、アメリカ軍による広島・長崎に対する原爆投下、沖縄戦と並んで、東京の都市部を標的とした無差別爆撃によって、市民に大きな被害を与えた。爆撃被災者は約310万人、死者は11万5千人以上[注 1][注 2]、負傷者は15万人以上、損害家屋は約85万戸以上の件数となった[4]。 概要[編集]東京都は1944年(昭和19年)11月24日から1945年(昭和20年)8月15日まで[5]合計106回もの空襲を受けたが、特に1945年(昭和20年)3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日〜26日の5回は大規模だった。 その中でも「東京大空襲」と言った場合、死者数が10万人以上の1945年(昭和20年)3月10日の夜間空襲(下町空襲。「ミーティングハウス二号」[6]。Meetinghouse 2[7])を指す(79年前)[注 3][9][10][11]。この3月10日の空襲だけで、罹災者は100万人を超え[10]、死者は9万5千人を超えたといわれる[12]。なお、当時の新聞報道では「東京大焼殺」と呼称されていた[4]。 対日戦略爆撃計画[編集]焼夷弾爆撃有効度別地域[編集]![]() 1942年にはナパームを使ったM69焼夷弾が開発され、1943年の国防研究委員会(NDRC) 焼夷弾研究開発部のレポートでは、住宅密集地域に焼夷弾を投下して火災を起こし、住宅と工場も一緒に焼き尽くすのが最適の爆撃方法であるとした上で、空爆目標の日本全国20都市を選定、さらに東京、川崎、横浜など10都市については焼夷弾爆撃の有効度によって地域を以下のように区分した[13][14]。
大規模攻撃報告書[編集]日本本土に対する空襲作戦は、綿密な地勢調査と歴史事例の研究を踏まえて立案されていった。その過程はアメリカ経済戦争局の1943年2月15日付報告書「日本の都市に対する大規模攻撃の経済的意義」に詳しい。 アメリカ軍は早くから江戸時代に頻発した江戸の大火や1923年の関東大震災の検証を行い、火元・風向き・延焼状況・被災実態などの要素が詳細に分析されていた。その結果、木造住宅が密集する日本の大都市は火災に対して特に脆弱であり、焼夷弾による空襲が最も大規模な破壊を最も効果的に与えることができると結論されていた。 具体的な空襲対象地域の選定に際しては、人口密度・火災危険度・輸送機関と工場の配置などの要素が徹底的に検討され、それを元に爆弾爆撃有効度が計算されて一覧表が作成された[13]。ここで特に重視されたのは人口密度だった。当時の東京各区の人口は浅草区の13万5000人が最大で、これに本所区・神田区・下谷区・荒川区・日本橋区・荏原区が8万人台で次いでいた。このうち荏原区は他から離れた郊外に位置するためこれを除き、替わりに人口7万人台の深川区の北半分を加えた都心一帯が、焼夷弾攻撃地域第一号に策定された[13]。 使用爆弾[編集]![]() ![]() アメリカ陸軍航空隊の伝統的なドクトリンは軍事目標に対しての精密爆撃であり、第二次世界大戦が始まった当時は航空機から投下する焼夷弾を保有していなかった。焼夷弾の開発に迫られたアメリカ軍はアメリカ陸軍航空軍司令官ヘンリー・アーノルド大将自らイギリスに飛んでイギリス軍の焼夷弾と、イギリス軍がロンドン空襲において回収していたドイツ軍の不発弾(900gマグネシウム弾)を譲り受けて焼夷弾の開発を開始した[15]。 日本に投下された主な焼夷弾
3月10日の大規模空爆で使用されたナパーム弾は、ロッキーマウンテン兵器工場で製造された[21]。 毒ガス散布計画案[編集]連合国は、東京市に効果的に毒ガスを散布するための詳細な研究を行っており、散布する季節や気象条件を始めとして散布するガスの検討を行い、マスタードガス・ホスゲンなどが候補に挙がっていた[22]。アメリカ陸軍参謀総長ジョージ・マーシャルは「我々が即座に使え、アメリカ人の生命の損失が間違いなく低減され、物理的に戦争終結を早めるもので、我々がこれまで使用していない唯一の兵器は毒ガスである」とも述べていた。アメリカ陸軍はマスタードガスとホスゲンを詰め込んださまざまなサイズの航空爆弾を86,000発準備する計画も進めていた[23]。また、アメリカ軍は日本の農産物に対する有毒兵器の使用も計画していた。1942年にメリーランド州ベルツビルにあるアメリカ合衆国農務省研究本部でアメリカ陸軍の要請により日本の特定の農産物を枯れ死にさせる生物兵器となる細菌の研究が開始された。しかし、日本の主要な農産物である米やサツマイモなどは細菌に対して極めて抵抗力が強いことが判明したので、細菌ではなく化学物質の散布を行うこととなり、実際に日本の耕作地帯にB-29で原油と廃油を散布したが効果はなかった。さらに検討が進められて、2,4-ジクロロフェノキシ酢酸を農作物の灌漑用水に散布する計画も進められた[24]。 人間に対して使用する細菌兵器の開発も進められた。炭疽菌を充填するための爆弾容器100万個が発注され、ダウンフォール作戦までにはその倍以上の数の炭疽菌が充填された爆弾が生産される計画であった。これら生物兵器や化学兵器の使用について、1944年7月にダグラス・マッカーサー大将たちとの作戦会議のためハワイへ向かうフランクリン・ルーズベルト大統領を乗せた重巡洋艦ボルチモア艦内で激しい議論が交わされた。合衆国陸海軍最高司令官(大統領)付参謀長ウィリアム・リーヒは「大統領閣下、生物兵器や化学兵器の使用は今まで私が耳にしてきたキリスト教の倫理にも、一般に認められている戦争のあらゆる法律にも背くことになります。これは敵の非戦闘員への攻撃になるでしょう。その結果は明らかです。我々が使えば、敵も使用するでしょう」とルーズベルトに反対意見を述べたが、ルーズベルトは否定も肯定もせず曖昧な返事に終始したという。結局、生物兵器や化学兵器が使われる前に戦争は終結した[25]。 空襲の経過[編集]背景[編集]![]() 1942年4月18日に、アメリカ軍による初めての日本本土空襲となるドーリットル空襲が航空母艦からのB-25爆撃機で行われ、東京も初の空襲を受け、荒川区、王子区、小石川区、牛込区が罹災した[26][27]。死者は39人[28]。 「マリアナ・パラオ諸島の戦い」および「サイパンの戦い」を参照
1943年8月27日、アメリカ陸軍航空軍司令官ヘンリー・アーノルド大将は日本打倒の空戦計画を提出、日本都市産業地域への大規模で継続的な爆撃を主張、焼夷弾(ナパーム弾)の使用に関しても言及[29]。この時、アーノルドは科学研究開発局長官ヴァネヴァー・ブッシュから「焼夷攻撃の決定の人道的側面については高レベルで行われなければならない」と注意されていたが、アーノルドが上層部へ計画決定要請を行った記録はない[30]。 1944年からのマリアナ・パラオ諸島の戦いでマリアナ諸島に進出したアメリカ軍は、6月15日にサイパンの戦いでサイパン島に上陸したわずか6日後、まだ島内で激戦が戦われている最中に、日本軍が造成したアスリート飛行場を占領するや、砲爆撃で開いていた600個の弾着穴をわずか24時間で埋め立て、翌日にはP-47戦闘機部隊を進出させている。その後、飛行場の名称を上陸3日前にサイパンを爆撃任務中に日本軍に撃墜され戦死したロバート・H・イズリー中佐に因んでコンロイ・イズリー飛行場(現在サイパン国際空港)改名、飛行場の長さ・幅を大幅な拡張工事を行い新鋭爆撃機B-29の運用が可能な飛行場とし、10月13日に最初のB-29がイズリー飛行場に着陸した[31]。同様に、グアムでも8月10日にグアムの戦いでアメリカ軍が占領すると、日本軍が造成中であった滑走路を利用してアンダーセン空軍基地など3か所の飛行場が建設され、8月1日に占領したテニアン島にもハゴイ飛行場(現・ノースフィールド飛行場)とウエストフィールド飛行場(現在テニアン国際空港)が建設された。ドーリットル空襲後、東京への空襲は途絶えていたが、これらの巨大基地の建設によりB-29の攻撃圏内に東京を含む日本本土のほぼ全土が入るようになった[32]。日本ではマリアナ諸島陥落の責任を東条内閣に求め、1944年7月18日に内閣総辞職した[32]。 サン・アントニオ作戦[編集]![]() 1944年10月12日、マリアナ諸島でB-29を運用する第21爆撃集団が新設されて、司令官には第20空軍の参謀長であったヘイウッド・ハンセル准将が任命された。ハンセルはマリアナに向かう第一陣のB-29の1機に搭乗して早々にサイパン島に乗り込んだ[33]。第20爆撃機集団が中国を出撃基地として1944年6月15日より開始した九州北部への爆撃は、八幡製鐵所などの製鉄所を主目標として行われていたが、これまでの爆撃の効果を分析した結果、日本へ勝利するためにはまずは航空機工場を破壊した方がいいのではないかという結論となった。当時の日本の航空機産業は、三菱重工業、中島飛行機、川崎航空機工業の3社で80%のシェアを占めていたが、その航空機工場の大半が、東京、名古屋、大阪などの大都市に集中しており、新たな爆撃目標1,000か所がリストアップされたが、その中では三都市圏の航空機工場が最優先目標とされた[31]。次いで、都市地域市街地が目標としてリストアップされたが、都市地域は、主要目標である航空機工場が雲に妨げられて目視による精密爆撃ができない場合に、雲の上からレーダー爆撃するための目標とされていた。同時に都市圏の爆撃については、精密爆撃だけではなく、焼夷弾による絨毯爆撃も行って、その効果を精密爆撃の効果と比較する任務も課せられた。したがってアメリカ軍はマリアナ諸島からの出撃を機に都市圏への焼夷弾による無差別爆撃に舵をきっていたことになる[34]。 1944年11月1日にB-29の偵察型F-13のトウキョウローズがドーリットル以来東京上空を飛行した。日本軍は帝都初侵入のB-29を撃墜してアメリカ軍の出鼻をくじこうと陸海軍の戦闘機多数を出撃させたが、高度10,000m以上で飛行していたので、日本軍の迎撃機はトウキョウローズを捉えることができなかった。なかには接敵に成功した日本軍機もあり、40分以上もかけてようやく高度11,400mに達しトウキョウローズを目視したが、トウキョウローズはさらにその上空を飛行しており攻撃することはできず、ゆうゆうと海上に離脱していった[35]。この日はほかにも、のち戦時公債募集キャンペーンにも用いられたヨコハマヨーヨーなど合計3機が、B-29としては初めて東京上空を飛行した[36]。これらの機が撮影した7,000枚もの偵察写真がのちの東京空襲の貴重な資料となった。この後もF-13は東京初空襲まで17回に渡って偵察活動を行ったが、日本軍が撃墜できたF-13はわずか1機に過ぎなかった[37]。この夜に日本軍は、対連合軍兵士向けのプロパガンダ放送「ゼロ・アワー」で女性アナウンサー東京ローズに「東京に最初の爆弾が落とされると、6時間後にはサイパンのアメリカ人は一人も生きていないでしょう」という警告を行わせているが、B-29の東京侵入を防ぐことが不可能なのは明らかとなった[38]。 11月11日に予定していた東京初空襲は天候に恵まれず延期が続いていたが、11月24日にようやく天候が回復したため、111機のB-29がそれぞれ2.5トンの爆弾を搭載して出撃した。主要目標は中島飛行機の武蔵製作所であった。作戦名は「サン・アントニオ1号作戦」と名付けられた[39]。1号機の「ドーントレス・ドッティ」には第73爆撃航空団司令のエメット・オドネル准将が乗り込んで、機長を押しのけて自ら操縦桿を握った。東京上空はひどい天候であったが、特にB-29の操縦員を驚かせたのが、高高度を飛行中に120ノット(220㎞/h)で吹き荒れていた強風であった。これはのちにジェット気流であることが判明したが、その強風にのったB-29は対地速度が720㎞/hにもなり、目標に到達できなかったり、故障で爆撃を断念する機が続出した。このジェット気流はこのあともB-29を悩ませることになった[40]。出撃したB-29の111機のうち、主要目標の武蔵製作所に達したのはわずか24機であり、ノルデン爆撃照準器を使って工場施設に限定精密照準爆撃を行なったが、投下した爆弾が目標から大きく外れるなどした結果、命中率は2%程度で[41]、主要目標の工場施設の損害は軽微であった[42]。主要目標に達することができなかった64機は2次目標であった港湾及び東京市街地へ爆弾を投弾したが、うち35機が雲の上からのレーダー爆撃で正確性を欠き、被害は少なく、死者57人と負傷者75人が生じた[26]。 東部軍司令部には、小笠原諸島に設置されたレーダーや対空監視所から続々と大編隊接近の情報が寄せられたため、明らかに東京空襲を意図していると判断、隷下の第10飛行師団に迎撃を命じ、正午に空襲警報を発令した[43]。迎撃には陸軍航空隊のほか、第三〇二海軍航空隊も加わり、鍾馗、零戦、飛燕、屠龍、月光といった多種多様な100機以上が、途中で17機が引き返し94機となったB-29に襲い掛かったが、B-29は9,150mの高高度で進行してきたため[44]、日本軍機や高射砲弾の多くがその高度までは達せず、東京初空襲で緊張していたB-29搭乗員らは予想外の日本軍の反撃の低調さに胸をなでおろしている[45]。それでも日本軍は震天制空隊の見田義雄伍長の鍾馗の体当たりにより撃墜した1機を含めて撃墜5機、損傷9機の戦果と未帰還6機を報じたが[42]、アメリカ側の記録によれば体当たりによる損失1機と故障による不時着水1機の合計2機の損失としている[45][46]。 1944年11月29日深夜から30日未明にかけて、第73爆撃航空団所属29機が初めて東京市街地へ夜間爆撃を行った。名目上は東京工業地帯が目標とされたが、実際は「サン・アントニオ1号作戦」や11月27日に行われた「サン・アントニオ2号作戦」と異なり、航空機工場などの特定の施設を目標としない東京の市街地への無差別焼夷弾攻撃であり、のちの東京への大規模焼夷弾攻撃に通じるものであった。作戦名は「ブルックリン1号作戦」と名付けられ[39]、B-29は11月29日22時30分から11月30日5時50分にかけて数次の波状攻撃で神田区や日本橋区を爆撃し、火災は夜明けまで続いた[47]。10,000mからの高高度爆撃ながら、この日の東京は雨が降っており雲の上からのレーダー爆撃となったこと、攻撃機数が少なかったことから被害は、死者32人、家屋2,952戸と限定的であったが[26]、日本軍も雨天によりまともな迎撃ができず、B-29の損失は、ハロルド・M・ハンセン少佐指揮の機体番号42-65218機のみであった[48]。 ![]() その後も12月3日の「サン・アントニオ3号作戦」で主要目標の武蔵製作所を爆撃できなかったB-29が、杉並区、板橋区などの市街地に爆弾を投弾し死者184人が生じたが[26]、このように主要目標は航空機工場などの軍事目標としながら、主要目標に爆撃できなかったB-29による市街地への爆撃が恒常化し[41]、1944年の年末までに東京市街地へは10回の空襲があったが、心理的効果はあったものの実質的な効果は少なかった。一方で東京以外での航空機工場に対する高高度精密爆撃は効果を挙げつつあり、12月13日のB-29の75機による名古屋の三菱発動機工場に対する空襲(メンフィス1号作戦)は8,000mから9,800mの高高度からの精密爆撃であったが[49]、投下した爆弾の16%は目標の300m以内に命中、工場設備17%が破壊されて246名の技術者や作業員が死亡、同工場の生産能力は月産1,600台から1,200台に低下した[50]。12月18日にも再度ハンセルは名古屋爆撃を命じたが、今回の目標は三菱の飛行機組み立て工場であった。63機のB-29は目標の殆どが雲に覆われていたため、前回と同じ8,000mから9,850mの高高度からレーダー爆撃を行ったが[51]、爆撃精度は高く、工場の17%が破壊されて作業員400名が死傷し10日間の操業停止に追い込まれた。この2日間のB-29の損失は合わせて8機であった[52]。 ハンセルによる高高度精密爆撃がようやく成果を上げていたころ、この2回目の名古屋空襲と同じ1944年12月18日に、第20爆撃集団司令官カーチス・ルメイ准将は、焼夷弾を使用した大都市焼夷弾無差別爆撃の実験として、日本軍占領下の中国漢口市街地に対して中国成都基地を出撃した84機のB-29に500トンもの焼夷弾を投下を命じた(漢口大空襲)。漢口はその後3日にわたって燃え続けて市街の50%を灰にして、漢口の中国人住民約20,000人が死亡した[53]。この爆撃により、市街地への無差別爆撃の有効性が証明されて、ルメイは自信をつけ、上官のアーノルドはルメイを高く評価することとなった[15]。 漢口で焼夷弾による無差別爆撃の効果が大きいと判断した第20空軍は、参謀長ローリス・ノースタッド准将を通じてハンセルに名古屋市街への全面的な焼夷弾による無差別爆撃を指示した[54]。ハンセルは市街地への無差別焼夷弾爆撃の効果に懐疑的であり、アーノルドに対して「我々の任務は、主要な軍事、工業目標に対して精密爆撃を行うことで、市街地への焼夷弾攻撃は承服しがたい」と手紙を書いて直接抗議したが、アーノルドはノースタッドを通じて、焼夷弾による無差別爆撃はあくまでも実験であり「将来の計画の必要性から出た特別の要求に過ぎない」と説いて、ハンセルは納得しないままで、翌1945年1月3日に、アーノルドの命令通りに名古屋の市街地への実験的な焼夷弾攻撃を97機のB-29により行ったが、死者70人、負傷者346人、被害戸数3,588戸と被害は限定的であり、日本側には空襲恐れるに足らずという安心感が広まることになった[55]。 年も押し迫った1944年12月27日にハンセルは今年1年の総括を「その結果は頼もしいものであるが。我々が求めている標準には遠く及ばない」「我々はまだ初期の実験段階にある。我々は学ぶべきことの多くを、解決すべき多くの作戦的、技術的問題を抱えている。しかし、我々の実験のいくつかは、満足とまではいかないとしても、喜ばしい結果を得ており、B-29は偉大な戦争兵器であることを立証した」と報道関係者に発表したが、この見解はアーノルドを失望させた。アーノルドはすでにB-29は実験段階を終えて戦争兵器としての価値を確立しており、それはルメイの第20爆撃集団が証明しつつあると考えていたので、ハンセルの見解とは全く異なっていた[56]。また、アーノルドはかつて「私はB-29がいくらか墜落することは仕方ないと思っている。しかし空襲のたびに3機か4機失われている。この調子で損失が続けば、その数は極めて大きなものとなるだろう。B-29を戦闘機や中型爆撃機やB-17フライング・フォートレスと同じようにあつかってはならない。B-29は軍艦と同じように考えるべきである。原因を完全に分析もせずに軍艦をいっぺんに3隻、4隻と損失するわけにはいかない。」とハンセルを叱責したこともあった。18万ドルのB-17に対して、B-29の調達価格は63万ドルと、高価な機体であったのにもかかわらず、挙げた成果に見合わない大きな損害を被ったハンセルに対する不信感もあって[57]、前々から検討してきた通りにハンセルを更迭しルメイにB-29を任せることにしている[56]。 1945年元旦、アーノルドは、ハンセルに更迭を伝えるため参謀長のノースタッドをマリアナに派遣し、また指揮権移譲の打ち合わせのためルメイもマリアナに飛ぶよう命じた。この3人はお互いをよく知った仲であり、ノースタッドは第20空軍の参謀長をハンセルから引き継いでおり、2人は個人的にも親しかった。またルメイはヨーロッパ戦線でハンセルの部下として働いたこともあった[56]。3人とそれぞれの幕僚らは1月7日に手短な打ち合わせを行って、ルメイは一旦インドに帰った[58]。1945年1月20日、ハンセルを更迭し、その後任に中国でB-29を運用してきたルメイを任命する正式な辞令が発令された[59]。第20爆撃集団はルメイ離任後にはクアラルンプールに司令部を移して、日本本土爆撃を中止し、小規模な爆撃を東南アジアの日本軍基地に継続したが、1945年3月には最後まで残っていた第58爆撃団がマリアナに合流している[60]。 戦後ハンセルは「もし自分が指揮を執り続けていたら大規模な地域爆撃(無差別爆撃)を行わなかっただろう。自分の罷免は精密爆撃から地域爆撃への政策転換の結果である」と語っているが、実際はハンセルの任期中でも、あくまでも主目標は航空機工場などの軍事的目標としながら、東京の市街地へも焼夷弾攻撃を行ったり[61]、アーノルドからの圧力とはいえ、市街地への無差別爆撃の準備を進め実験的に実行していた[62]。 ミーティングハウス作戦[編集]1号作戦[編集]![]() 1945年1月27日、B-29は中島飛行機武蔵製作所を爆撃するため76機が出撃したが(エンキンドル3号作戦)、うち56機が第2次目標の東京市街地である有楽町・銀座地区を爆撃した。この空襲はのちに「銀座空襲」と呼ばれたが、被害は広範囲に及び有楽町駅は民間人の遺体で溢れるなど[63]、死者539人[26]、負傷者1,064人、全半壊家屋823戸、全半焼家屋418戸、罹災者4,400人と今までで最大の被害が生じた[42]。日本軍も激烈に迎撃し、B-29撃墜22機を報じ、12機の戦闘機を失った[64]。アメリカ軍の記録ではB-29の損失は9機であった[65]。 1945年2月25日、当日に行われる予定のアメリカ海軍高速空母部隊の艦載機による爆撃と連携して、B-29は中島飛行機武蔵製作所を高高度精密爆撃する計画であったが[66]、気象予報では日本の本州全域が雲に覆われており、目視での精密爆撃は無理と判断されたため、急遽、爆撃目標を武蔵製作所から東京の市街地へと改められた。進路も侵入高度もそのまま武蔵野製作所爆撃のものを踏襲したが、使用弾種の9割に焼夷弾が導入された。「エンキンドル3号作戦」と異なる点は、最初からB-29全機が東京の市街地を目標として焼夷弾攻撃を行うことであった[67]。 作戦名はミーティングハウス1号(Meetinghouse)とされたが、このミーティングハウスというのは、東京の市街地のうちで標的区画「焼夷地区」として指定した地域の暗号名で、1号というのはその目標に対する1回目の攻撃を意味していた[68]。ミーティングハウス1号作戦では、それまでで最多の229機が出撃し、神田駅を中心に広範囲を焼失させて、神田区、本所区、四谷区、赤坂区、日本橋区、向島区、牛込区、足立区、麹町区、本郷区、荒川区、江戸川区、渋谷区、板橋区、葛飾区、城東区、深川区、豊島区、滝野川区、浅草区、下谷区、杉並区、淀橋区空襲、死者195人、負傷者432人、被害家屋20,681戸と人的被害は「銀座空襲」より少なかったが、火災による家屋の損害は大きかった[26]。宮城も主馬寮厩仕合宿所が焼夷弾によって焼失し、局、大宮御所、秩父宮御殿などが被害にあった[28]。 ミーティングハウス1号作戦は、天候による目標の急遽変更によるもので、攻撃方法も、この後の低空からの市街地への無差別焼夷弾攻撃とは全く異なるものであり、直接の関連はなく[69]、この日に出撃したB-29の搭乗員らにも特別な説明もなく、あくまでも、これまでの出撃の延長線のような認識であった[70]。作戦中は常に悪天候であり、また急遽作戦目標を変更したこともあってか、B-29は編隊をまともに組むことができず、17機の編隊で整然と爆撃した部隊もあれば、まったく単機で突入した機もある始末で全く統制がとれていなかったので成果は期待外れであったが[71]、結果的には、3月10日から開始される市街地への大規模な無差別焼夷弾爆撃の予告となるような作戦となった[72]。悪天候とB-29の統制が取れていなかった分、日本軍の迎撃も分散してしまい、この日のB-29の損失は空中衝突による2機のみであった[73]。雲上からの空襲で多くの家屋が焼失したのに対してまともな迎撃ができなかった日本軍は、東京都民の間に沸き起こりつつあった「軍防空頼むに足らず」という感情を抑え込むために、特に悪天候時にも迎撃機が出動できるようレーダーの強化を図る必要性に迫られた[74]。 1945年2月26日から28日までの時期のB-29による東京空襲は、昼間に8000メートル程度の高高度を編隊で飛びながらノルデン爆撃照準器による目視照準を主用し、悪天候時には雲より高空からレーダー照準を活用する精密爆撃を意図したものだった。工場などが目標のため、使用弾種も焼夷弾ではなく通常爆弾が中心だった。攻撃隊は東京西部からジェット気流に従って侵入し爆撃を行うのが通例で、悪天候で攻撃目標を捉えられない場合にはそのまま東進して市街地を爆撃することがあった[67]。 2号作戦[編集]![]() ![]() ![]() 1945年1月20日に着任したルメイも、高高度昼間精密爆撃はアメリカ陸軍航空隊の伝統的ドクトリンであり、前任者ハンセルの方針を踏襲していたが、工場に対する高高度精密爆撃はほとんど効果がなく、逆に1月23日の名古屋の三菱発動機工場への爆撃(エラディケート3号作戦)と1月27日に行った中島飛行機武蔵製作所への爆撃(エンキンドル3号作戦)で合計11機のB-29を失うという惨めな結果に終わった[15]。1945年2月までにアメリカ軍は、中国からの出撃で80機、マリアナ諸島からの出撃で78機、合計158機のB-29を失っており[75]、ルメイはあがらぬ戦果と予想外の損失に頭を悩ませていた[76]。信頼していたルメイも結果を出せないことに業を煮やしたアーノルドは、また、ノースタッドをマリアナに派遣してルメイを「やってみろ。B-29で結果を出せ。結果が出なかったら、君はクビだ」「結果が出なかったら、最終的に大規模な日本上陸侵攻になり、さらに50万人のアメリカ人の命が犠牲になるかも知れんのだ」と激しい言葉で叱咤した[77]。 アーノルドに叱咤されたルメイは大胆な作戦方針の変更を行うこととした。偵察写真を確認したルメイは、ドイツ本土爆撃で悩まされた高射機関砲が日本では殆ど設置されていないことに気が付いた。そこでルメイは爆撃高度を思い切って高度9,000m前後の高高度から3,000m以下に下げることにした。高射機関砲が少ない日本では爆撃高度を下げても損失率は上がらないと考えたからである。そして、爆撃高度を下げることによる下記の利点が想定された[78]。
ルメイの分析を後押しするように、アメリカ軍の情報部は、今までの日本本土への空襲を検証して、1,500m以上では日本軍の高射機関砲は殆ど効果がなく、高射砲は3,000m以下の高度はレーダー照準による命中率が大幅に低下していることを突き止め、爆撃高度は1,500mから2,400mの間がもっとも効果が高いと分析した[80]。ルメイの作戦変更には漢口大空襲での成功体験も後押しとなった[15]。 しかし低空では日本軍戦闘機による迎撃が強化されるので夜間爆撃とした。夜間戦闘機が充実していたドイツ軍と比較して、ルメイは日本軍の夜間戦闘機をさして脅威とは考えておらず[81]、B-29尾部銃座以外の防御火器(旋回機関銃)を撤去し爆弾搭載量を増やすことにした。この改造により軽量化ができたため、爆弾搭載を今までの作戦における搭載量の2倍以上の6トンとし、編隊は防御重視のコンバット・ボックスではなく、イギリス軍がドイツ本土への夜間爆撃で多用した、編隊先頭の練度の高いパスファインダーの爆撃により引き起こされた火災を目印として1機ずつ投弾するというトレイル(単縦陣)に変更した[82]。 「ミーティングハウス2号作戦」と呼ばれた1945年3月10日の大空襲(下町大空襲)は、前述の超低高度・夜間・焼夷弾攻撃という新戦術が本格的に導入された初めての空襲だった。その目的は、木造家屋が多数密集する下町の市街地を、そこに散在する町工場もろとも焼き払うことにあった。この攻撃についてアメリカ軍は、日本の中小企業が軍需産業の生産拠点となっているためと理由付けしていた。東京大空襲・戦災資料センターによれば、大型の軍需工場は精工舎や大日本機械業平工場のみで、築地、神田、江東などの市場、東京、上野、両国の駅、総武線隅田川鉄橋などが実際の目標で、住民の大量殺害により戦争継続意思を削ぐことが主目的だったとしている[12]。 アメリカ軍がミーティングハウス2号作戦の実施を3月10日に選んだ理由は、延焼効果の高い風の強い日と気象予報されたためである[83]。ルメイは出撃に先立って部下の搭乗員に「諸君、酸素マスクを捨てろ」と訓示している[84]。このルメイの訓示に兵士が難色を示すと、ルメイは葉巻を噛み切って「何でもいいから低く飛ぶんだ」と恫喝している[85]。搭乗員の中では、このような自殺的な作戦では、空襲部隊の75%を失うと強硬に反対した幕僚に対してルメイが「それ以上に補充要員を呼び寄せれば済むことではないか」と言い放ったという真偽不明の噂も広がり、出撃前の搭乗員の不安はピークに達していた[86]。アメリカ軍の参加部隊は第73、第313、第314の3個爆撃航空団で、325機のB-29爆撃機が出撃した。ルメイはこの出撃に際して作戦機への搭乗し空中指揮することも考えたが、このときルメイは原子爆弾の開発計画であるマンハッタン計画の概要を聞いており、撃墜され捕虜となって尋問されるリスクを考えて、自分がもっとも信頼していた トーマス・パワー准将を代わりに出撃させることとした[87]。 ![]() 本隊に先行して、第73、第313編隊から先行した4機のB-29が房総海岸近くの海上で1時間半にも渡って旋回しながら日本本土に接近している本隊を無線誘導した[88]。この日は非常に強い風が吹き荒れており、日本軍の監視レーダー超短波警戒機乙は強風により殆ど正常に機能しておらず、強風による破損を恐れて取り外しも検討していたほどであった[89]。レーダーは役に立っていなかったが、防空監視哨が勝浦市南方で敵味方不明機(無線誘導のために旋回していたB-29)を発見し、日本標準時9日22時30分にはラジオ放送を中断、警戒警報を発令したが、やがて敵味方不明機が房総半島沖に退去したので、警戒警報を解除してしまった[90]。しかし、その間に本隊は着々と東京に接近しており、9日の24時ちょうどに房総半島最西端の洲崎対空監視哨がB-29らしき爆音を聴取したと報告、その報告を受けた第12方面軍 (日本軍)が情報を検討中の[89]、日付が変わった直後の3月10日午前0時7分に爆撃が開始された。325機の出撃機のうち279機が第一目標の東京市街地への爆撃に成功し[90]、0時7分に へ初弾が投下されたのを皮切りに、城東区(現在の江東区)にも爆撃が開始された。空襲警報は遅れて発令され、初弾投下8分後の0時15分となった。日本軍と同様に多くの東京都民も虚を突かれた形となり、作家の海野十三は3月10日の日記に「この敵、房総に入らんとして入らず、旋回などして1時間半ぐらいぐずぐずしているので、眠くなって寝床にはいった」と書いているなど、床に就いたのちにB-29の爆音で慌てて飛び起きたという都民も多かったという[88]。 出撃各機は武装を撤去して焼夷弾を大量に搭載したこともあり、この空襲での爆弾の制御投下弾量は38万1300発、1,665トンにも上ったがその全部が焼夷弾であった[91]。また、「低空進入」と呼ばれる飛行法が初めて大規模に実戦導入された。この飛行法ではまず、先行するパス・ファインダー機(投下誘導機)によって超低空からエレクトロン焼夷弾を投弾、その閃光は攻撃区域を後続する本隊に伝える役割を果たした。パス・ファインダー機はこの日のために、3月3日、5日、7日に戦闘任務に出撃して訓練を繰り返して腕を磨いていた[82]。その本隊の爆撃機編隊も通常より低空で侵入した上、発火点によって囲まれることになる領域に向けて集束焼夷弾E46を集中的に投弾した。これは50キロの大型焼夷弾で、目標地域に4か所の爆撃照準点を設定してこれを投下することで、大火災を起こして消火活動をまひさせ、その後の小型の油脂焼夷弾を投下する目印となる照明の役割を果たすことを期待していたという[12]。この爆撃の着弾精度は、高空からの爆撃に比べて高いものだったが、アメリカ軍の想定以上の大火災が生じ、濃い火災の煙が目標上空を覆ってしまい、爆撃を開始してしばらく経ったころには秩序ある投弾というのは机上の空論に過ぎなくなってしまった[88]。 北風や西風の強風の影響もあり、火災は目標地域をこえ、東や南に広がり、本所区、深川区、城東区の全域、浅草区、神田区、日本橋区の大部分、下谷区東部、荒川区南部、向島区南部、江戸川区の荒川放水路より西の部分など下町の大部分を焼き尽くした[12]。結局、下谷区、足立区、神田区、麹町区、日本橋区、本郷区、荒川区、向島区、牛込区、小石川区、京橋区、麻布区、赤坂区、葛飾区、滝野川区、世田谷区、豊島区、渋谷区、板橋区、江戸川区、深川区、大森区が被害にあった[26]。災難の中で昭和天皇の初孫の東久邇信彦が防空壕で誕生した日でもあった。 一部では爆撃と並行して旋回機関銃による非戦闘員、民間人に対する機銃掃射も行われた[92]。日本側資料では「アメリカ軍機が避難経路を絶つように市街地の円周部から爆撃した後、中心に包囲された市民を焼き殺した」と証言するものがあるが、そのような戦術はアメリカ軍の資料では確認できない。アメリカ軍の作戦報告書によれば、目標が煙で見えなくなるのを避けるため、風下の東側から順に攻撃する指示が出されていた。体験者の印象による誤解と考えられる[93]。発生した大火災によりB-29の搭乗員は真夜中にもかかわらず、腕時計の針を読むことができたぐらいであった[18]。B-29が爆撃区域に入ると、真っ昼間のように明るかったが、火の海の上空に達すると、陰鬱なオレンジ色の輝きに変わったという[94]。他の焼夷弾爆撃と桁違いの被害をもたらせた最大の原因は関東大震災のさいにも発生した火災旋風が大規模に発生したためであったが、爆撃していたB-29も火災旋風による乱気流に巻き込まれた。荒れ狂う気流の中で機体の安定を保つのは至難の業で、気が付くと高度が1,500m以上も上がっていた[95]。なかには機体が一回転した機もあり、搭乗員は全員負傷し、顔面を痛打して前歯を欠いたものもいた。あまりに機体が上下するので、着用していた防弾服で顔面を何度もたたかれ、最後には全員が防弾服を脱いで座布団がわりに尻の下に敷いている[96]。そして、人が燃える臭いはB-29の中にも充満しており、搭乗員は息が詰まる思いであった[95]。 誘導機に搭乗したパワーは「まるで大草原の野火のように燃え広がっている。地上砲火は散発的。戦闘機の反撃なし。」と実況報告している。空襲時の東京を一定時間ごとに空からスケッチするため高度1万メートルに留まっていたB-29に対して、ルメイは帰還後にそのスケッチを満足げに受け取ると「この空襲が成功すれば戦争は間もなく終結する。これは天皇すら予想できぬ」と語った[97]。 被害規模[編集]![]() ![]() ![]() 当時の警視庁の調査での被害数は以下の通り。 人的被害の実数はこれよりも多く、死者約8万-10万、負傷4万-11万名ともいわれる。上記警視庁の被害数は、早期に遺体が引き取られた者を含んでおらず、またそれ以外にも行方不明者が数万人規模で存在する。民間団体や新聞社の調査では死亡・行方不明者は10万人以上と言われており、単独の空襲による犠牲者数は世界史上最大である。両親を失った戦災孤児が大量に発生した。外国人、および外地出身者の被害の詳細は不明。 また当時東京に在住していた朝鮮人97632人中、戦災者は41300人で、死者は1万人を軽く越すと見られている[98][99]。 この空襲で一夜にして、東京市街地の東半部、実に東京35区の3分の1以上の面積にあたる約41平方キロメートルが焼失した。爆撃による火災の煙は高度1万5000メートルの成層圏にまで達し、秒速100メートル以上という竜巻並みの暴風が吹き荒れ、火山の大噴火を彷彿とさせた。午前2時37分にはアメリカ軍機の退去により空襲警報は解除されたが、想像を絶する大規模な火災は消火作業も満足に行われなかったため10日の夜まで続いた。当時の東京の消防システムは充実しており、東京への空襲を見越して、学生などから急遽採用された年少消防官を含む8,100人の訓練を受けた消防士に1,117台の消防車が配備されており、そのうちの716台が電動化されていた。防火の貯水槽や手押しポンプ、バケツも多数住宅地に設置されてあった[100]。しかし、発生した火災の規模は想定を遥かに超えており、消防システムは空襲開始30分で早くも機能不全に陥り、95台の消防車が破壊されて125人の消防士が殉職した[101]。 当夜の冬型の気圧配置という気象条件による強い季節風(いわゆる空っ風)は、火災の拡大に大きな影響を及ぼした。強い北西の季節風によって火勢が煽られ延焼が助長され、規模の大きい飛び火も多発し、特に郊外地区を含む城東地区や江戸川区内で焼失区域が拡大する要因となった。さらに後続するアメリカ軍編隊が爆撃範囲を非炎上地域にまで徐々に広げ、当初の投下予定地域ではなかった荒川放水路周辺や、その外側の足立区や葛飾区、江戸川区の一部の、当時はまだ農村地帯だった地区の集落を含む地域にまで焼夷弾の実際の投下範囲が広げられたことにより、被害が拡大した。これは早い段階で大火災が発生した投下予定地域の上空では火災に伴う強風が生じたため、低空での操縦が困難になったためでもあった。 爆撃の際には火炎から逃れようとして、隅田川や荒川に架かる多くの橋や、燃えないと思われていた鉄筋コンクリート造の学校などに避難した人も多かった。しかし火災の規模が常識をはるかに超えるものだったため、至る所で巨大な火災旋風が発生し、あらゆる場所に竜の如く炎が流れ込んだり、主な通りは軒並み「火の粉の川」と化した。そのため避難をしながらもこれらの炎に巻かれて焼死してしまった人々や、炎に酸素を奪われて窒息によって命を奪われた人々も多かった。焼夷弾は建造物等の目標を焼き払うための兵器だが、この空襲で使われた焼夷弾は小型の子弾が分離し大量に降り注ぐため、避難民でごった返す大通りに大量に降り注ぎ子供を背負った母親や、上空を見上げた人間の頭部・首筋・背中に突き刺さり即死させ、そのまま爆発的に燃え上がり周囲の人々を巻き添えにするという凄惨な状況が多数発生した。また、川も水面は焼夷弾のガソリンなどの油により引火し、さながら「燃える川」と化し、水中に逃れても冬期の低い水温のために凍死する人々も多く、翌朝の隅田川・荒川放水路等は焼死・凍死・溺死者で川面があふれた。これら水を求めて隅田川から都心や東京湾・江戸川方面へ避難した集団の死傷率は高かった一方、内陸部、日光街道・東武伊勢崎線沿いに春日部・古河方面へ脱出した人々には生存者が多かった。また、空襲を避ける為各地で防空壕が設けられそこに避難した人々も多かったが、防空壕の換気が不十分の為酸欠状態となりそこで窒息死する人々も多かった[102]。医師として聖路加国際病院で治療に当たった日野原重明はトラックで運ばれてくる大量の怪我人をチャペルや廊下にベニヤ板を敷くなどして受け入れたが、場所が足りずに治療できないまま屋外で亡くなった人も多かったことを教訓に、新病棟の建設時には大量の被災者発生に対応した設計とした[103]。 日本の総理大臣小磯國昭(小磯内閣)はこの空襲を「もっとも残酷、野蛮なアメリカ人」と激しく非難し[104]、国民に対しては「都民は空襲を恐れることなく、ますます一致団結して奮って皇都庇護の大任を全うせよ」と呼びかけた[105]。ラジオ東京は空襲を「虐殺」と断じ、ルメイを現代のローマ皇帝ネロと比喩し「東京の住宅街と商業街を囲む炎の海は、皇帝ネロによるローマ大火の大虐殺を彷彿とさせる」とも報じた[106]。この惨禍はこれから日本全土に広がっていくこととなり、ルメイは、その後も3月11日、B-29の310機で名古屋(名古屋大空襲)、3月13日、295機で大阪(大阪大空襲)、3月16日、331機で神戸(神戸大空襲)、3月18日、310機で再度名古屋を東京大空襲と同様に、夜間低空でのM69焼夷弾による無差別爆撃を行った[107]。日本全土に被害が広がると、日本のマスコミはルメイに対する舌戦をさらに激化させ、朝日新聞などは「元凶ルメー、思ひ知れ」という記事で「やりをったな、カーチス・ルメー」「暴爆専門、下劣な敵将」「嗜虐性精神異常者のお前は、焼ける東京の姿に舌舐めづりして狂喜してゐるに相違ない」「われわれはどうあつてもこのルメーを叩つ斬らねばなるまい」などと思いつく限りの誹謗と罵倒を新聞紙上で浴びせている[108]。 日本軍による迎撃[編集]![]() 房総半島南端の洲崎監視廠がB-29らしき爆音を確認し、慌てて第12方面軍司令部に報告したが、そのわずか数分後の0時8分には東京の東部が焼夷弾攻撃を受けたため、空襲警報は空襲が開始されたのち0時15分となり、市民の避難も日本軍による迎撃も間に合わなかった[109]。それでも、第10飛行師団 の飛行第23戦隊(一式戦「隼」)、飛行第53戦隊(二式複戦「屠龍」)、飛行第70戦隊(二式戦「鍾馗」)の計42機と海軍の第三〇二海軍航空隊から月光4機が出撃し、陸軍の高射砲部隊(高射第1師団)との戦果を合わせてB-29を15機撃墜、50機撃破の戦果を報じた[109]。アメリカ軍側の記録でもB-29が14機失われ[110]、今までの爆撃任務で最大級の損失とはなったが、その劇的な成果と比較すると決して大きな損失ではなかった[104]。出撃時にルメイに不満を抱いていたB-29搭乗員らも予想外の損害の少なさに、ルメイの戦術変更が正しかったと感想を抱いている[111]。 損失の内訳は日本軍の対空火器での撃墜2機、事故1機、その他4機(3機が燃料切れ墜落、1機不明)、7機が原因未確認(lost to unknown reasons)とされている。原因未確認の7機はすべて連絡のないまま行方不明となった機であるが[112]、この日に出撃して無事帰還したB-29搭乗員からは、東京上空では合計7機のB-29が撃墜されたという報告があり[113]、さらに行方不明とされていた1機については銚子岬の上空で4本の探照灯に捉えられて、大小の対空火器の集中砲火で撃墜されたという詳細な報告があったのにもかかわらず、原因未確認の損失とされ[112]、この日に日本軍により撃墜されたと判定されたのは、東京上空で対空火器で撃墜された1機と、対空火器の損傷で不時着水して搭乗員全員が救助された1機の合計2機のみに止まった。当時のアメリカ軍は日本軍の攻撃(Enemy Action)による損失と認定するにはよっぽどの確証が必要で、それ以外は未知(ないし未確認)の原因(lost to unknown reasonsもしくはcauses)とする慣習であったので、原因未確認の損失が増加する傾向にあった[114]。 この日は高射砲による戦果が目立っている。高高度精密爆撃の際は、数的には日本の高射砲戦力の主力を担っていた最大射高9,100mの八八式七糎野戦高射砲と、10,000mの九九式八糎高射砲は高度8,000m以上で爆撃していたB-29に対しては射高不足であり、少しでも高度を稼ぐため、日本劇場や両国国技館の屋上などにも設置されたが、なかなか捉えることができず、日本国民から「当たらぬ高射砲」と悪口を言われた。しかし、ルメイによる作戦変更によりB-29の爆撃高度が下がったので、日本軍の高射砲はB-29を捉えることができるようになった[115]。高射第1師団にいた新井健之大尉(のちタムロン社長)は「いや実際は言われているほどではない。とくに高度の低いときはかなり当たった。本当は高射砲が落としたものなのに、防空戦闘機の戦果になっているものがかなりある。いまさら言っても仕方ないが3月10日の下町大空襲のときなど、火災に照らされながら低空を飛ぶ敵機を相当数撃墜した」と発言している。代々木公園にあった高射砲陣地から撃たれた高射砲はよく命中していたという市民の証言もある。高射砲弾が命中したB-29は赤々と燃えながら、その巨体が青山の上空ぐらいで爆発して四散していた[114]。日本軍の戦闘機による迎撃を過小評価していたルメイも高射砲に対してはかなり警戒していた[116]。 その後の東京都への空襲[編集]
![]() ミーティングハウス2号の約1か月後となる4月13日に東京に大規模焼夷弾攻撃が計画された。今回は市街地への無差別爆撃ではなく、目標は東京第一陸軍造兵廠、東京第二陸軍造兵廠を含む兵器工場群とされたが、目標の中には「工場作業員の住居」も含むとされており、結局のところは市街地への無差別焼夷弾攻撃であった[114]。作戦名は造兵廠群を含む目標区域の暗号名をとってパーディション作戦と名付けられた[114]。327機のB-29が出撃して[117]、3月10日の空襲を上回る2,119トンの爆弾が、今までの空襲で最長となる3時間にも渡って投下されたが、そのうち96.1パーセントが焼夷弾であり、11.4平方マイル(29.5 km2)が焼失した[118]。空襲により兵器工場群に大きな被害があったのに加えて、皇居の一部と大宮御所と明治神宮にも被害が出た。新宿御苑には火災から逃れようと市民が殺到したが、守衛が門を固く閉ざして御苑内に市民を入れなかった。市民のうちの1人がなぜ入れないのか問い詰めたところ、守衛は「天皇陛下の芋が植えてある」と答えたため激高した市民が門を打ち壊しにかかり、結局門は開放されて多くの市民が御苑内に避難している[119]。 皇居などに被害が出たことについて、阿南惟幾陸軍大臣と梅津美治郎陸軍参謀総長が宮中に参内して昭和天皇にお詫びを言上したが、昭和天皇からは「41機の撃墜を報じていた戦果についての御嘉賞の言葉があった」という[120]。この日のB-29の損失はアメリカ軍の記録によれば7機であった[121]。 沖縄戦が開始されると、九州の各航空基地から出撃した特攻機にアメリカ海軍は大きな損害を被ったので、アメリカ太平洋艦隊司令長官兼太平洋戦域最高司令官のチェスター・ニミッツ元帥からの強い要請により、4月上旬から延べ2,000機のB-29が、都市の無差別爆撃任務から、特攻機の出撃基地である九州の飛行場の爆撃任務に回された[122]。特攻機出撃基地への爆撃は1か月以上行われたが、結局、B-29は飛行場施設を破壊しただけで、特攻機に大きな損害を与えることができず、特攻によるアメリカ海軍の損害はさらに拡大していった。その後、沖縄の飛行場が整備されて戦術作戦担当の爆撃機などが配備されたこともあり、5月11日にはB-29は本来の戦略爆撃任務に復帰したがその間は大都市圏に対する無差別焼夷弾攻撃は中止されていた[123]。 戦略爆撃が中止されている間に、英領インドに展開していた第20爆撃集団の第58爆撃航空団がマリアナに合流し、第21爆撃機集団 は4個航空団となっていた[60]。B-29の配備も順調で、5月から6月にかけて、常時400機のB-29が全力出撃できる十分な量の焼夷弾と航空燃料が準備され、稼働機も常に400機以上が揃っていた[124]。ルメイは充実した戦力で都市圏への無差別焼夷弾攻撃を強化し、5月14日昼間に529機、5月16日夜間に522機で名古屋を爆撃(名古屋大空襲)、高高度精密爆撃では大きな損害を与えられなかった名古屋市街と工場に甚大な損害を与えて、完全に破壊してしまった。焼夷弾で焼失した建物のなかには名古屋城も含まれていた[125]。 ミーティングハウス2号とその後の爆撃により大損害を被っていた東京にも総仕上げとして最大規模の焼夷弾攻撃が計画されることになった。今まではミーティングハウスやパーディションなど目標区域の暗号名に則した作戦名が付されていたが、総仕上げの空襲という意味合いもあってか、目標区域は“東京市街地”とされ、暗号名で呼ばれることもなく、特別な作戦名も付されなかった[126]。 ![]() 5月24日未明にB-29が558機、5月25日の夜間にB-29が498機という、3月10日のミーティングハウス2号を上回る大兵力が仕上げの焼夷弾攻撃に投入された[127]。投下した爆弾はすべて焼夷弾であり、5月23日に3,645トン[128]、5月25日に3,262トンが投下された[128]。これは3月10日に投下された1,665トンの4倍に近い量となった[91]。 1945年(昭和20年)4月13日以降の主要な空襲による東京都の被害状況[129][61]
![]() ミーティングハウス2号のときより死傷者が格段に少なかったのは、3月10日には警戒警報が解除されたあとに爆撃が開始され、空襲警報の発令が最初の爆弾投下から7分後と遅れたのに対して[109]、4月13日は警戒警報発令が午後10時44分、B-29の爆撃開始が午後10時57分、空襲警報が午後11時と、警戒警報の解除はなかったものの前回に引き続き空襲警報が3分遅れていたが[130]、その後の5月24日は警戒警報発令が午前1時5分、空襲警報が午前1時36分、B-29の爆撃開始が午前1時39分[131]、5月25日は警戒警報発令が午後10時2分、空襲警報が10時22分、B-29の爆撃開始が午後10時38分と[132]、空襲開始前に空襲警報が発令できたことや、疎開が進んだこと、市民が消火より避難を優先するようになったことが挙げられる[133]。東京の人員疎開は1944年3月3日に東條内閣閣議決定した「一般疎開促進要綱」に基づき進められ、1944年2月に6,658,162人であった東京の人口は1945年2月には4,986,600人(1944年2月比75%)まで減少していた。3月10日の焼夷弾攻撃ののち、東京都はさらに疎開を進めることとし、3月13日から4月4日の約1か月で82万人、4月13日の空襲ののちにさらに60万人、5月25日の空襲ののちには77万人を地方に転出させた。そのため、1945年5月の人口は3,286,010人と1944年2月比で半減し、6月には2,537,848人(同39%)まで減っている。それでも残った都民は焼け野原に仮小屋を建てたり防空壕で生活する者もあった[134]。 焼失面積は2日間で合計22.1平方マイル(57.2 km2)に及び、1945年2月19日、2月25日、3月10日の3回の空襲で焼失した16.8平方マイル(43.5 km2)を上回った。そしてこの2日間分を含めた東京の空襲での焼失面積は56.3平方マイル(145.8 km2)となり、緑地や建物がまばらな地域を除いてアメリカ軍が東京市街地として判定していた110.8平方マイル(286.9 km2)の50.8%を焼き払ったこととなった[118]。すでに東京は、名古屋、大阪、横浜、川崎などの主要都市と同様に破壊されつくされたと判定されて、主要爆撃リストの目標から外されることとなった[135]。 1945年5月25日の空襲では、今までアメリカ軍が意図的に攻撃を控えてきた皇居の半蔵門に焼夷弾を誤爆してしまい、門と衛兵舎を破壊した。焼夷弾による火災は表宮殿から奥宮殿に延焼し、消防隊だけでは消火困難であったので、近衛師団も消火にあたったが火の勢いは弱まらず、皇居内の建物の28,520 m2のうち18,239 m2を焼失して4時間後にようやく鎮火した。御文庫附属庫に避難していた昭和天皇と香淳皇后は無事であったが、宮内省の職員ら34名と近衛師団の兵士21名が死亡した。また、この日には鈴木貫太郎首相の首相官邸も焼失し、鈴木は防空壕に避難したが、防空壕から皇居が炎上しているのを確認すると、防空壕の屋根に登って、涙をぬぐいながら炎上する皇居を拝している[136]。また、阿南惟幾陸軍大臣が責任をとって辞職を申し出たが、昭和天皇が慰留したため、思いとどまっている[137]。皇居は1945年7月20日に、原子爆弾投下の演習として全国各地に投下されていたパンプキン爆弾の目標となっている。この日、パンプキン爆弾投下訓練のため東京を飛行していたクロード・イーザリー少佐操縦のストレートフラッシュ号で、副航空機関士ジャック・ビヴァンスの提案により、昭和天皇を殺害するために攻撃が禁止されていた皇居を目標とすることにした。しかし、皇居の上空には雲が立ち込めており、レーダー照準での爆撃となったので、パンプキン爆弾は八重洲口側の皇居の堀に着弾して、死者1人と負傷者62人を出した。日本のラジオ放送で皇居爆撃の事実を知った爆撃団司令部によりイーザリーらは厳しく叱責されたが、原子爆弾投下任務から外されることはなかった[138]。 日本の大都市を破壊しつくしたルメイは、目標を人口10万人から20万人の中小都市58に対する焼夷弾攻撃を行うこととした。この作戦は6月17日に開始されて、鹿児島、大牟田、浜松、四日市、豊橋、福岡、静岡、富山などが目標となり終戦まで続けられた。このころになると日本国民はアメリカ軍のどの兵器よりもB-29を恐れるようになっており、上智大学の神父として日本に在住し、日本人との親交が深かったブルーノ・ビッテルによれば「日本国民の全階層にわたって、敗戦の意識が芽生え始めるようになったのは、B-29の大空襲によってであった」と証言している[139]。戦後にアメリカ軍による戦略爆撃の効果を調査した米国戦略爆撃調査団が、日本の戦争指導者や一般国民に調査したところ、日本が戦争に敗北すると認識した国民の割合については、1944年6月まではわずか国民の2%に過ぎなかったが、1945年3月10日の空襲以降に19%、その後空襲が激化した1945年6月には46%に跳ね上がり、終戦直前に68%となっていた[140]。 日本軍による迎撃[編集]![]() 5月24日には、前回の東京大空襲と同じ轍を踏むまいと、日本陸海軍の首都防空を担う第10飛行師団と第三〇二海軍航空隊と横浜海軍航空隊が全力で迎撃し、迎撃機の総数は140機にもなった[141]。なかでも飛行第64戦隊(いわゆる「加藤隼戦闘隊」)で中隊長として勇名をはせた黒江保彦少佐が四式戦闘機「疾風」で3機のB-29撃墜を記録するなど[142]、陸軍23機、海軍7機の合計30機の撃墜を報じた。(高射砲隊の戦果も含む)アメリカ軍側の記録でも17機損失、69機損傷と大きな損害を被っている[143]。5月25日には、日本軍の迎撃はさらに激烈となり、日本軍側は47機撃墜を報じ、アメリカ軍側でも26機損失100機損傷とB-29の出撃のなかで最悪の損害を被ることになったが[141]、アメリカ軍が日本軍に撃墜されたと記録しているのは対空火器で撃墜された3機のみで、対空砲と戦闘機の攻撃で大破し硫黄島近辺で放棄された2機と、3月10日と同様に連絡つかずに行方不明となった20機は原因未確認の損失とされて、アメリカ軍の記録上は日本軍の攻撃(Enemy Action)による損失には含まれていない[144]。 しかし、日本軍側によれば、第302海軍航空隊だけで、月光7機、彗星(斜銃装備の夜間戦闘機型)4機、雷電5機、零戦5機が迎撃して、B-29の16機撃墜を報告し[145][146]、陸軍の高射砲も5月25日の1日だけで、八八式7cm野戦高射砲7,316発、九九式8cm高射砲6,119発、三式12cm高射砲1,041発、合計14,476発の高射砲弾を消費するなど激しい対空砲火を浴びせて、海軍の戦果も合わせてB-29合計47機撃墜を記録しており[137]、日本軍側の戦果記録は過大とは言え、原因未確認の損失の中の大部分は日本軍により撃墜したものと推定される[147]。この日に出撃した航空機関士チェスター・マーシャルによれば、今までの25回の出撃の中で対空砲火がもっとも激しく探照灯との連携も巧みであったとのことで、帰還後に26機が撃墜されたと聞かされたB-29の搭乗員らが恐れをなしたと著書に記述している[148]。 日本軍は探知だけではなく火器管制レーダーについても配備を進めており、大戦初期にシンガポールで鹵獲したイギリス軍のGL Mk.IIレーダー(英)をデッドコピーしたり、ドイツからウルツブルグレーダーの技術供与を受けたりして、「タチ1号」・「タチ2号」・「タチ3号」・「タチ4号」などの電波標定機を開発して本土防空戦に投入している[149]。B-29が作戦変更により夜間の爆撃が増加したため、日本軍は高射砲と探照灯の照準を射撃管制レーダーに頼るようになった。各高射砲陣地には「た号」(タチの略称)が設置されて、レーダーの誘導で射撃する訓練を徹底して行うようになり[150]、6基 - 12基で1群を編成する探照灯陣地にもレーダーもしくは聴音機が設置されて、レーダーや聴音機に制御された探照灯がB-29を照射すると、他の探照灯もそのB-29を照射した[151]。 アメリカ軍は日本軍の射撃管制レーダーがイギリス製のものをもとに開発していることを掴むと、その対抗手段を講じることとし、B-29にジャミング装置を装備した。そしてB-29に搭乗してジャミング装置を操作する特別な訓練を受けた士官を「レイヴン」(ワタリガラス)と呼んだ。東京大空襲以降の作戦変更により、B-29が単縦陣で個別に爆弾を投下するようになると、爆弾を投下しようとするB-29は多数の日本軍火器管制レーダーの焦点となって、機体個別のジャミングでは対応できなくなった。そこで、アメリカ軍はB-29数機をECM機に改造して、専門的にジャミングを行わせることとした。そのB-29には18基にものぼる受信・分析・妨害装置が搭載されたが、機体のあらゆ方向にアンテナが突き出しており、その形状から「ヤマアラシ」と呼ばれることとなった[152]。ヤマアラシは、1回の作戦ごとに10機以上が真っ先に目標に到着して、熟練したレイヴンの操作により電波妨害をして探照灯や高射砲を撹乱、聴音機に対してはエンジンの回転数をずらしてエンジン特性を欺瞞するなど[153]、日本軍防空陣とB-29の間で激しい駆け引きが行われていた。 この東京への2回の爆撃でB-29は今までで最悪の43機を損失、169機が損傷を被るという大きな損害を被った。ルメイは爆撃が甚大な損害を与えているのだから、B-29の損害は当然であると考えていた。しかし、第20空軍司令部ではB-29の損失増加を懸念して対策を講じるように指示してきたので、ルメイは5月29日の横浜への大規模焼夷弾攻撃(横浜大空襲)のさいには、B-29の454機に硫黄島に展開するP-51D101機を護衛につけた[154]。次いで6月1日のB-29の454機による神戸と大阪の大規模焼夷弾攻撃にもP-51の護衛を出撃させたが、離陸直後に暴風圏にぶつかって、P-51が一度に27機も墜落している。編隊で計器飛行ができないP-51に対しては、B-29が航法誘導する必要があり、ルメイは護衛戦闘機は足手まといぐらいに考えていた。B-29は搭載している防御火器で日本軍機に十分対抗できるため、狭い硫黄島の飛行場に多くの戦闘機を置くのは勿体なく、戦闘機を減らして、B-29を配置すべきとも考えていたが[155]、P-51の護衛により、それまでB-29迎撃の主力であった陸軍「屠龍」海軍「月光」などの運動性能が低い双発戦闘機は使用できなくなり、単発戦闘機の迎撃も一段と困難になってしまった[156]。さらに、P-51がB-29の護衛として多数飛来する頃には、大本営は敵本土上陸部隊への全機特攻戦法への航空機確保が優先し防空戦闘を局限する方針をとっている[157]。具体的な運用としては、損害が増大する敵小型機(戦闘機)への迎撃は原則抑制したため、B-29への戦闘機による迎撃はB-29にP-51の護衛がなく有利な状況の時に限る方針となり日本軍機の迎撃は極めて低調で、日本軍戦闘機からのB-29の損害は激減している[158]。それでも、アメリカ陸軍航空軍の統計によれば、B-29の太平洋戦争(大東亜戦争)における延べ出撃数に対する戦闘損失率は1.32%とされているが[159]、東京に対する空襲においては損失率が跳ね上がり3.3%となっており、首都圏で日本軍は奮戦していた。一方で、同じ枢軸国ドイツの首都ベルリン空襲におけるアメリカ軍とイギリス軍爆撃機の損失率は6.6%と東京空襲の2倍の損失率で[160]、B-29の高性能さと日本軍の防空戦闘能力の脆弱さを如実に表しており、もはや日本軍にB-29を押しとどめる力は残っていないことが明らかになった[161]。 |