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731部隊(ななさんいちぶたい)は、第二次世界大戦期の大日本帝国陸軍に存在した研究機関のひとつ。

正式名称は関東軍防疫給水部(関東軍防疫部から改称)[4]。731部隊の名は、その秘匿名称(通称号)である満洲第七三一部隊の略。なお、1941年3月に通称号が導入されるまでは、指揮官であった石井四郎の苗字を取って石井部隊と通称された。

初代731部隊長石井四郎(1932年に撮影された陸軍三等軍医正(少佐相当)当時の写真、のち陸軍軍医中将

満洲に拠点を置き、兵士の感染症予防や、そのための衛生的な給水体制の研究を主任務とすると同時に、細菌戦に使用する生物兵器の研究・開発機関でもあった[注釈 2]。そのために人体実験[5]や、生物兵器の実戦的使用[6][7]を行っていたとされる。

沿革

1925年化学兵器細菌兵器の使用を禁じるジュネーブ議定書が、締結された際、石井四郎は条約で禁止しなければならないほど細菌兵器が脅威であり、有効であるなら、これを開発しない手はないと考えた。その頃、石井は2年間の長期に渡り海外旅行を行ったが、帰国後に最強諸国が細菌戦の準備を行っており、日本もその準備をしなければ、大きな困難に遭遇すると日本陸軍省や参謀本部幹部らに、説いて回った[8]

1932年(昭和7年)8月、陸軍軍医学校防疫部の下に石井四郎ら軍医5人が属する防疫研究室(別名「三研」)が開設された。それと同時に、日本の勢力下にあった満洲への研究施設の設置も着手された。そして、出先機関として関東軍防疫班が組織され、翌1933年(昭和8年)秋からハルビン東南70kmの背陰河において研究が開始された。この頃の関東軍防疫班は、石井四郎の変名である「東郷ハジメ」に由来して「東郷部隊」と通称されていた[9]

1936年(昭和11年)4月23日、当時の関東軍参謀長 板垣征四郎によって「在満兵備充実に対する意見」における「第二十三、関東軍防疫部の新設増強」[10]関東軍防疫部の新設が提案され、同年8月には、軍令陸甲第7号により正式発足した。1940年の年間予算は1000万円という高額なものであった[8]。関東軍防疫部は通称「加茂部隊」とも呼ばれており、これは石井四郎の出身地である千葉県山武郡芝山町加茂部落の出身者が多数いたことに由来する。このとき同時に関東軍軍馬防疫廠(後に通称号:満洲第100部隊)も編成されている。1936年12月時点での関東軍防疫部の所属人員は、軍人65人(うち将校36人)と軍属105人であった。部隊規模の拡張に応じるため、平房(ハルビン南方24km)に新施設が着工され、1940年に完成した[9]

石井の構想したのは「パスツール研究所」や「ロックフェラー研究所」のような総合医学研究施設であったが、内地でできないこと(人体実験)を行うためには満州の北端に行けばよいと考えた。京都帝大医学部からは、助教授や講師級の若い優秀な研究者が派遣され、石川太刀雄丸(病理学)、岡本耕造解剖学)、田部井和チフス研究)、湊正男コレラ研究)、吉村寿人凍傷研究)、笠原四郎ウイルス研究)、二木秀雄(結核研究)、貴宝院秋夫天然痘研究)、などが石井の元に集められた[8]

関東軍防疫給水部本部731部隊ボイラー棟建物。1945年8月9日ソ連軍満洲への侵攻直後、大量の爆薬によって破壊された。常石敬一は、この破壊は証拠隠滅であったとする。

1940年(昭和15年)7月、軍令陸甲第14号により、関東軍防疫部は「関東軍防疫給水部(通称号:満洲第659部隊)」に改編された。そのうちの本部が「関東軍防疫給水部本部(通称号:満洲第731部隊)」である。731部隊を含む関東軍防疫給水部全体での所属人員は、1940年7月の改編時で軍人1235人(うち将校264人)と軍属2005人に増加し、東京大学に匹敵する年間200万円(1942年度)の研究費が与えられていた[9]厚生労働省の集計によれば、1945年(昭和20年)の終戦直前における所属人員は3560人(軍人1344人、軍属2208人、不明8人)だった[11]。この間、1942年8月から1945年3月には関東軍防疫給水部長が石井四郎から北野政次軍医少将に代わっていたが、引き続き731部隊などは石井の影響下にあったと見られている[1]浙江省寧波、玉山、金華などの都市へのチフス菌コレラ菌の散布が行われたものの成功せず、ペスト菌に感染したノミを寧波や金華に投下して成功、これに満足すると記録フィルムを制作し、軍隊内で大々的に宣伝した。石井はペスト菌を細菌作戦の主要兵器として選択するとペストノミの生産能力の拡大に尽力する。常徳でのペストノミの1000メートル上空からの投下や、1942年浙かん作戦を敢行。この頃、いったん移動により東京に戻り、北野政次が2代目隊長に就任するが、1945年3月には戦況が悪化したため、石井が部隊に戻るが、着任早々、「戦況が悪化しつつあるため、春の終わりか夏には好転を期し、細菌兵器を含む最後の手段を用いなければならない」と熱弁をふるった。同時にペストノミ生産のため、9月末までに300万匹のネズミの増殖を命令した。しかし、8月8日、予想よりもはるかに早くソ連が満州に侵攻。起死回生の秘密兵器は使われることはなく、施設の撤収、撤去作業を余儀なくされた[8]

1945年(昭和20年)8月、ソ連対日参戦により、731部隊など関東軍防疫給水部諸部隊は速やかに日本本土方面への撤退が図られた。敗戦に際して、軍は関連文書の処分を命じ、証拠隠滅を図った[4]

大本営参謀だった朝枝繁春によると、朝枝は8月10日に満洲に派遣され、石井四郎らに速やかな生物兵器研究の証拠隠滅を指示したと言う。この指示により施設は破壊され、部隊関係者の多くは8月15日までに撤収したが、一部は侵攻してきたソ連軍の捕虜となり、ハバロフスク裁判戦争犯罪人として訴追された[12]

戦後、部隊に所属していた医師たちは、アメリカに研究資料などを提供する見返りとして、戦犯免責を受けた[4]。また、元隊員の越定男によると、隊員たちは、「郷里に帰ったのちも、七三一に在籍していた事実を秘匿し、軍歴をかくすこと」「あらゆる公職には就かぬこと」「隊員相互の連絡は厳禁する」ことを申し渡された[13]